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日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

ドキュメント形式

 小説の中に、手紙・日記・手記・ノート・新聞記事その他のドキュメント(記録文書)が利用されている場合、それをドキュメント形式と呼んでいます。ドキュメントは、実用的なメッセージ伝達に用いられる言説形式であり、また、そこには事実が述べられていると信じられています。ドキュメント形式は多くの場合、ドキュメントのように事実ではないが、ドキュメントと同じく真実らしく見える形式です。すなわち、ドキュメントとドキュメント形式との違いは、非虚構か虚構かの違いと重なる部分があります。

 西洋近代小説の最初の主潮流は書簡体小説であり、漱石の『こゝろ』は手記と手紙、太宰の『人間失格』は手記のノート、村上春樹の『ノルウェイの森』は回想手記の形式をとっています。このほかにも、近代小説には無数のドキュメント形式のテクストがあります。それは、何よりも真実らしさを仮構するための方法として、ドキュメント形式が重宝されたからであると言えます。

 ドキュメント形式には各々の法則がありますが、畢竟それらは、虚構の言語形式一般の法則に合流します。たとえば、『ノルウェイの森』はハンブルク空港着陸直前の機内の場面から回想が始まりますが、回想している主体が実際はいつ・どこにいるのか、どのようにしてこの長大な手記を書いたのか、などのことは、どれほど読み込んでも明らかにはなりません。(解釈することはできます。)現実のドキュメントの場合には、そのような事情は、何らかの形で実在すると考えられますが、ドキュメント形式の場合には、必ずしもそうではないのです。

 しかし、ドキュメント形式がジャンルの根幹を占めるに至り、むしろドキュメント形式こそ、自らが虚構であることを如実に示す特徴ともなります。加えて、次のような現象も考慮に入れなければなりません。それは、私たちが手紙・日記・手記などを書く場合、あるいは新聞記事を書く場合においてさえ、一切、虚構を含まない書き方があるのだろうか、ということです。根元的虚構論は、それに対して否と答えます。とすれば、ドキュメントがドキュメント形式を支えていることは確かであるとしても、むしろ、ドキュメント形式の読み方こそ、ドキュメントの読み方を拡張してゆくのではないでしょうか。