太陽があなたを見放さないうちは
大学3年の夏休み、下宿していた恵和町から、私は毎日6時半の始発バスに乗り、仙台駅で乗り換え、仙石線で塩釜の電電公社まで行きました。交換機の列の上に組まれた配電用の足場を使って、火災報知システムを外付けするアルバイトです。バイト要員の仕事は、もっぱら、機材運びと掃除でした。高い足場と重い仕事、それに荒っぽい棟梁やあんチャンたちに辟易しながら、半月くらい通いました。
こういう力仕事のアルバイトも、また電車通勤も初めての体験でした。早起きする私に、下宿のおばさんが朝食を出してくれました。自分はヤクザくずれだという棟梁は、毎日私たちに昼食をおごり、また石巻の川開き祭に連れて行って、夜はアパートに私を泊めてくれました。行き帰りの電車で、岩波文庫で荷風の小説を読んでいました。棟梁が貸してくれた榎本武揚の本も読みました。夕方の風が汗を冷やし、体を使う仕事の疲れが快かった覚えがあります。
その収入を、私はぜんぶ本に注(つ)ぎ込みました。盛岡の母校に教育実習の挨拶をしに伺った際、高校の先生は、「卒論は何を書くの?」と聞いてくれました。当時、小説の技術論について考えていた私は、描写論の関係では田山花袋を、またリアリズムや知識人論の問題では有島武郎を候補として、どちらかを選びたいと思っていたのです。それを聞くと、先生は迷わず、「有島にしないか?」と促しました。
もちろん最終的には自分で決めて、有島の全集を買うことにしました。当時、手に入る有島全集は古本だけで、大正期に出た叢文閣版か、昭和初期に出た新潮社版かのいずれかでした。大学の先生は新潮社版をお持ちでしたが、古書店で売りに出ていたのが叢文閣版であったので、私はこの、有島の親友・足助素一が経営していた出版社の本を、萬葉堂から購入したのです。萬葉堂の店主が、自ら車で恵和町の下宿まで運んできてくれました。
それは、カミュ全集に次いで、私のささやかな本棚を占める、2つめの全集になりました。しかし、ハイカラなカミュ全集に比べて、50年以上前の有島全集の、なんと朽ちかかっていたことか! 触れると手の汚れるようなこの12巻の本に、けれども私はその後、毎日手を触れないわけにはいきませんでした。有島全集との出会いについて、まず思い出すのは、あの仙石線のことです。 天井が高く、ごおごおと空調の音が響き、薄暗く、そして、よそよそしい。
そんな大学図書館で、私は『近代文学』派の本を読みかじっていました。そもそも、カミュやアナーキズムが興味の中心にあったので、埴谷雄高の『死霊』や『不合理ゆえに吾信ず』や『闇の中の黒い馬』などの黒い本がすぐに視野に入ってきました。そこから、佐々木基一のリアリズム論や、平野謙・荒正人と「政治と文学」論争の潮流などが流れ込んできたのです。本多秋五の『「白樺」派の文学』を読んだのは、実はずっと後のことでした。
70年代後半の大学は、まだ嵐の名残が残っていました。タテカン、昼休みのアジ演説とジグザグデモ、クラスへのオルグ、サークル協議会の紛争、講義棟のロックアウト、授業の占拠……。権力を否定する人たちは、自身もっとも権力的に振る舞い、それをたしなめる人に対して、お前こそ権力的なのだと叫び、それは叫びだけでは収まりません。そのような殺伐としたディスコミュニケーションの中で、私はカミュを読み、中公・世界の名著『アナキズム』を読み、そして「政治と文学」論争の知識人論から有島武郎に行き着きました。
動物公園の近く、松が丘のアパートに越してから、翻訳のなかった叢文閣版の有島英文日記を、文字通り辞書首っぴきで苦心して読みました。住宅街で、子どもたちが、午後から電灯をつけている部屋を窓から覗いて、「お勉強してる」と噂していきます。夜昼逆転、朝刊を読んで寝る、という生活を続け、私は180枚の卒業論文を書きました。あのころ、ペンを持つ右手が疲れるので、重い荷物は左手で持つようにしていたことを覚えています。
ちょうどその年のことです。筑摩書房版の、ふくろうの窓のデザインをあしらった、美しい有島全集の刊行が、『或る女』の巻を皮切りに始まったのは。私の本棚には、古書と、50年の時を隔てた新しい全集とが、徐々に並んでゆきました。有島には、クリスチャニズムとの確執、性の暗闘、生の哲学との関わり、ホイットマン、ベルクソン、トルストイ、クロポトキンその他の比較文学的問題など、無数の門があります。しかし、私の有島は、私の見るところのカミュ=アナーキズムの系譜以外にはありません。
その後、色々な有島論を書きましたが、あの夏の英文日記難読こそ、私の有島修業のいちばんの思い出です。
こういう力仕事のアルバイトも、また電車通勤も初めての体験でした。早起きする私に、下宿のおばさんが朝食を出してくれました。自分はヤクザくずれだという棟梁は、毎日私たちに昼食をおごり、また石巻の川開き祭に連れて行って、夜はアパートに私を泊めてくれました。行き帰りの電車で、岩波文庫で荷風の小説を読んでいました。棟梁が貸してくれた榎本武揚の本も読みました。夕方の風が汗を冷やし、体を使う仕事の疲れが快かった覚えがあります。
その収入を、私はぜんぶ本に注(つ)ぎ込みました。盛岡の母校に教育実習の挨拶をしに伺った際、高校の先生は、「卒論は何を書くの?」と聞いてくれました。当時、小説の技術論について考えていた私は、描写論の関係では田山花袋を、またリアリズムや知識人論の問題では有島武郎を候補として、どちらかを選びたいと思っていたのです。それを聞くと、先生は迷わず、「有島にしないか?」と促しました。
もちろん最終的には自分で決めて、有島の全集を買うことにしました。当時、手に入る有島全集は古本だけで、大正期に出た叢文閣版か、昭和初期に出た新潮社版かのいずれかでした。大学の先生は新潮社版をお持ちでしたが、古書店で売りに出ていたのが叢文閣版であったので、私はこの、有島の親友・足助素一が経営していた出版社の本を、萬葉堂から購入したのです。萬葉堂の店主が、自ら車で恵和町の下宿まで運んできてくれました。
それは、カミュ全集に次いで、私のささやかな本棚を占める、2つめの全集になりました。しかし、ハイカラなカミュ全集に比べて、50年以上前の有島全集の、なんと朽ちかかっていたことか! 触れると手の汚れるようなこの12巻の本に、けれども私はその後、毎日手を触れないわけにはいきませんでした。有島全集との出会いについて、まず思い出すのは、あの仙石線のことです。 天井が高く、ごおごおと空調の音が響き、薄暗く、そして、よそよそしい。
そんな大学図書館で、私は『近代文学』派の本を読みかじっていました。そもそも、カミュやアナーキズムが興味の中心にあったので、埴谷雄高の『死霊』や『不合理ゆえに吾信ず』や『闇の中の黒い馬』などの黒い本がすぐに視野に入ってきました。そこから、佐々木基一のリアリズム論や、平野謙・荒正人と「政治と文学」論争の潮流などが流れ込んできたのです。本多秋五の『「白樺」派の文学』を読んだのは、実はずっと後のことでした。
70年代後半の大学は、まだ嵐の名残が残っていました。タテカン、昼休みのアジ演説とジグザグデモ、クラスへのオルグ、サークル協議会の紛争、講義棟のロックアウト、授業の占拠……。権力を否定する人たちは、自身もっとも権力的に振る舞い、それをたしなめる人に対して、お前こそ権力的なのだと叫び、それは叫びだけでは収まりません。そのような殺伐としたディスコミュニケーションの中で、私はカミュを読み、中公・世界の名著『アナキズム』を読み、そして「政治と文学」論争の知識人論から有島武郎に行き着きました。
動物公園の近く、松が丘のアパートに越してから、翻訳のなかった叢文閣版の有島英文日記を、文字通り辞書首っぴきで苦心して読みました。住宅街で、子どもたちが、午後から電灯をつけている部屋を窓から覗いて、「お勉強してる」と噂していきます。夜昼逆転、朝刊を読んで寝る、という生活を続け、私は180枚の卒業論文を書きました。あのころ、ペンを持つ右手が疲れるので、重い荷物は左手で持つようにしていたことを覚えています。
ちょうどその年のことです。筑摩書房版の、ふくろうの窓のデザインをあしらった、美しい有島全集の刊行が、『或る女』の巻を皮切りに始まったのは。私の本棚には、古書と、50年の時を隔てた新しい全集とが、徐々に並んでゆきました。有島には、クリスチャニズムとの確執、性の暗闘、生の哲学との関わり、ホイットマン、ベルクソン、トルストイ、クロポトキンその他の比較文学的問題など、無数の門があります。しかし、私の有島は、私の見るところのカミュ=アナーキズムの系譜以外にはありません。
その後、色々な有島論を書きましたが、あの夏の英文日記難読こそ、私の有島修業のいちばんの思い出です。