Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

文語定型詩・口語自由詩

 きわめて頻繁に用いられながら、概して、よく分からないままになっている典型的な文芸用語が、この文語定型詩・口語自由詩です。

 まず、文語と口語の区別ですが、この場合、文語は書き言葉ではなく、古語・古文を、口語は話し言葉ではなく、現代語・現代文を指します。いつの時代でも、もちろん現代をも含めて、書き言葉と話し言葉とは異なっていますが、その境界線は曖昧です。書き言葉が話し言葉を取り入れることや、またその逆も日常的に行われます。また、現代語は、特に書き言葉の場合、必ずしも古語の否定ではないので、私たちは言い回しの中で古語も普通に用いています。

 萩原朔太郎の『月に吠える』は、一般には口語自由詩の成立を告げる詩集の一つとされますが、よく読むと、古語なのか現代語なのか微妙な詩編が少なくありません。実際に朔太郎は、その後、文語詩をも書くのですが、どのような尺度で文語詩・口語詩と呼ぶのかは、実は読む側のフレームによって異なってくるとも言えるわけです。朔太郎・賢治などの文語回帰などを論じる際には、このことを念頭に置かなければなりません。

 次に、定型詩と自由詩の区別ですが、これもまた一義的に明確ではありません。日本の詩は西洋の詩の韻律や、漢詩の平仄・脚韻などとは異なり、音数律(五七調、七五調など)をもって定型の尺度としてきました。和歌・俳諧の伝統のほか、近代に至って、島崎藤村の『若菜集』などのように、賛美歌の影響下に新規な音数律も導入されました。ところで、音数律は口語詩にはないのでしょうか。

 これをほぼ否定したのが、菅谷規矩雄の『詩的リズム』です。この正続二冊の本は、たぶん広く一般には知られていないと思いますが、詩を読む者が必ず読むべきと言ってよいほど、重要な研究書です。それによると、中原中也宮澤賢治をはじめとして、近代の多くの詩人たちのテクストは、表面的にはそう見えなくとも、顕著な音数律によって彩られているということです。だから、それらは朗読すると調子がよいのです。

 詳細は同書に譲りますが、そうなると、音数律を基準に定型・自由を区別してきた詩の見方は、どこかで微調整を行わなければならなくなるでしょう。そしてさしあたり、文語・口語と定型・自由という言葉を用いる際には、どのような意味でそう述べるのかを、個々の場合に即して独自に定義していく必要がある、ということです。