Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

マルメロの陽光

 教授と私は、チサンホテルの横の、旅館を改造したような飲み屋で酒を飲んでいました。ユルマズ・ギュネイの『路』と、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』の2本立てを見て、「世の中にはまだ、いい映画というものがあるのだな」と言い合っていました。打ちのめされたからです。

 ニューアカデミズムの頃、知的空間は張りつめ、常に緊張していました。しかし、商業的でない映画を上映する映画館が、街にはなかったのです。教授と私は、教養部や医学部、エルパーク、白鳥会館などで行われる自主上映に足繁く通っては、前衛的な映画を見ようとしました。マン=レイの『ひとで』、ジュネの『至上の愛』などは、医学部まで歩いて行って見ました。

 駅裏にシネアートが開館して、ヨーロッパ現代映画の連続上映を始めました。私はほとんど毎週のように、仕事の後、9時頃まで映画を見て、明るい駅の構内を歩いて表通りに戻り、缶ビールを飲みながらテレビゲームをして帰りました。『ゼビウス』を知っていますか? 『グラディウス』は?

 この寡作で寡黙なスペインの作家、エリセの代表作は、静かでゆっくりしたシークェンスによって、見る者を突き刺します。私は、饒舌な詩人、物語の得意な小説家、賑やかな映画作家を信じません。その夜は、アナが水辺でモンスターに出会った時と同じほど、暗かったのを覚えています。教授は、「あの子がすべてだな」と言いました。

 アナは、町はずれの隠れ家で介抱していた男が射殺されたことから、家出して、『フランケンシュタイン』のモンスターが住む、幻想の向こう側に行ってしまいます。自分の属する世界を信じられなくなること、そして、その背景に父と母との間の静かな、しかし深い溝があること、『ミツバチのささやき』のこれらの要素は、それが、きわめて普遍的な物語であり映像であることを示しています。

 PCも携帯も地下鉄もなく、CDがようやく出回り始めた頃でした。でも、私が不自由に思っていたのはそんなことではなく、大きな本屋のないことと、映画が見られないことでした。けれども、あの頃、マルメロの果実のように、身の回りと未来に、いくらでも豊穣にあるかのように感じられた私の時間は、今、ほんの一つかみしか手元にないのです。……