Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

姦通小説

 小説ジャンルの一つで、いわば、小説の王道を行くものです。恋愛小説の多くが、恋愛の挫折・不可能性を描くものであるのと同様に、恋愛小説の典型としての姦通小説は、姦通の挫折を描きます。恋愛の成就する恋愛小説もあるでしょうが、姦通して万々歳というのは、少なくとも、歴史的記憶であるジャンルとしての姦通小説とは無縁です。多くのジャンルは、テクストと社会的・歴史的制度とが交錯する場なのです。

 かつて存在した日本の姦通罪は、「有夫ノ婦」、つまり夫のある妻が他の男と情交した場合、夫の訴えにより罪に問われるというものでした。逆の場合には、妻は夫を訴える権利はありません。(妻が訴えられた場合には、相手の男は同罪となります。)これが示すとおり、姦通は男女のうち女性(妻)の罪とされ、姦通小説の主人公は女性(妻)であることが多いのです。『ボヴァリー夫人』のエマ、『アンナ・カレーニナ』のアンナ、『或る女』の早月葉子……。

 このことは、姦通小説は性の二重規範に関わっており、結婚によって家庭内に拘束された女性が、その束縛を破ろうとする自由の表現であるとともに、またそれを禁忌とする社会制度(家父長制)の表現でもあることを意味します。従って姦通小説は、たぶんにジェンダー(文化的な性差)的な要素をはらんでいると言えます。詳しくはトニー・タナー『姦通の文学』(文学における姦通)に譲ります。

 姦通小説のヒロインは、物語の結末で死(典型的には自殺)を迎えることが多いのですが、それは社会の懲罰意識の表現と言えます。エマは砒素を仰ぎ、アンナは鉄路に身を投げ出し、葉子は子宮病が昂進します。けれどもそれは、そのように描き出す作家の懲罰意識ではありません。姦通小説の作家たち(男性が過半を占めます)は、その仕方で女性の自立・権利を理解しようとしたと考えられます。

 ただ、『ボヴァリー夫人』を読み直してみて、このように構造化した姦通小説認識は、大枠のフレームに過ぎないのだな、と感じました。むしろジャンルは、多種多様な欲望とテクストとのぶつかり合う領域なのでしょう。マリオ・バルガス=リョサの『果てしなき饗宴』は、時間や語り・文体などを縦横に分析した、見事な『ボヴァリー夫人』論であり、作家・政治家であった著者の知見が十二分に発揮されています。フレームは多方向から、揺り動かされることを待ち望んでいます。