Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

共約不可能性

 科学史において、あるパラダイムが、他のパラダイムと、有意味性の条件が全く共有されない場合、2つのパラダイムは共約不可能であると言います。'incommensurability'の訳で、「共役」「共訳」と綴ることもあります。

 時空間はいついかなる条件においても均質であるととらえるニュートン物理学と、いや、それは地球上のような日常世界の条件下においてそうであるだけで、宇宙空間のようなマクロな空間では成り立たない、そこでは時空間は相互に変容を来すと考える相対性理論とは、共約不可能である、というように用います。(ちなみに、有意味性の条件間が、完全に無関係ということではなく、例えばニュートン力学相対性理論で用いられている用語は、何から何まで百%違うわけではありません。)

 パラダイム論を極端に徹底したパウル・K・ファイヤアーベントによれば、ある科学の正しさは絶対的に証明できるものではなく、それは単に宗教のようなもので、当然、パラダイム間は共約不可能性に彩られているが、この共約不可能性を起点とした知のアナーキズムによってこそ、科学は進展するとされます。そこで共約不可能性は、人が異なる成長の過程をたどって、異なる知覚を発達させることと関連するとされ、むしろ一般的なものとさえ見なされるのです。

 私たちは、どんな相手も何を考えているのか正確には分からない、思いやりあうしかない、ということをよく知っています。コミュニケーションの限界を痛感しつつも、そのコミュニケーションによる以外には、恋愛も職業もありえないのです。それは、分かりあうこと、思いやりあうことの困難性・不可能性を、常に含意した経験です。コミュニケーションの不可能性が大規模に噴出する時、それは、あらゆる紛争や戦争が危惧される時でもあります。また、読み・書き、話し・聞く言語行為の中には、最も身近な共約不可能性が潜んでいます。

 例えば、坂口安吾の「文学のふるさと」や宮澤賢治の「ほんたうの神さま」を考える際に、私たちは共約不可能性の近くを通るのではないでしょうか。共約不可能性は、科学だけでなく、分析哲学などにおける問題ともされてきましたが、文学もまた、その地点から、自らのあり方を再考しなければならないように思います。もしも文学が、恋愛や職業の様相を最も直接に見つめる最高の科学であろうとするならば、ですけれど。