Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

ここを過ぎて

 私が初めて教壇に立った大学には、「郷土作家研究」という授業がありました。現在ならさしずめ、地元密着ということで珍重されるでしょうが、もともと私は、どこでも(郷里でも、現在も)地元文学なんて考えたこともなかったので、全然ピンと来ないまま、太宰治の小説を取りあげ、当時そうであった(今でもそうなのですが)自分の流儀に従って冷笑的に、できるだけ、地元から離れ、研究史の常識からも離れるような仕方で、講義用にこしらえたノートが、「人間失格」論でした。

 この「人間失格」論は、私が書いたものの中では、おそらく最も顕著に語り論の手法を用いたもので、この小説の語り手の大庭葉蔵と、主人公としての大庭葉蔵とを厳密に区別し、その両者の関わり合いを問題にしたものです。そうですね、村上龍の『愛と幻想のファシズム』を論じた文章もあるのですが、語り論としてはそれと双璧だろうと思い起こします。その手法は、今では陳腐化したかも知れませんが、当時はまだ、小森陽一『構造としての語り』などが話題になる前でした。

 同じころ、同じような冷笑に従って書いたのが、「道化の華」論です。私の書いた最初のメタフィクション論で、要するにそれからこのかた、メタフィクション理論としては、ここから一歩も出ていないわけです。なんという遅鈍! でもこの論文は、後に作家の長部日出雄さん(太宰論を幾つも書いています)に賞められたりして、私としては忘れられないものの一つです。こちらの主人公も大庭葉蔵という名前なのですが、作家らしき語り手が、自分の書きぶりについてコメントを加える仕組みです。

 それから、「猿面冠者」「創生記」「二十世紀旗手」「懶惰の歌留多」「HUMAN LOST」……と、これらの鉤に少しでも引っかかってくるテクストは、とりあえずそのようにして読んでみよう、とやっているうちに、ここまできたかな、という感じです。なので、私は桜桃忌に三鷹詣をするような太宰ファンとはちょっと違います。けれど、ひとこと、言いたいな、と思うことは、冷笑もまた、愛のかたちなのだ、ということです。……