Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

モンタージュ

 映画学校に映画実験工房(クレショフ工房)を設け、様々なモンタージュの実験を試みていたレフ・クレショフは、一般に「クレショフ効果」と呼ばれる現象を発見していました。俳優イヴァン・モジューヒンの同じクロース・アップに、次々と違うフィルム断片を繋ぐことによって、同じ顔が違う表情に見えるのです。クレショフ効果は、意味論的な残像効果とも言え、残像現象を生命とする映画にとっては、重要な表意作用です。

 これを本格的に導入したのがセルゲイ・エイゼンシュテインであり、『戦艦ポチョムキン』には、例えば煮えたぎる鍋の有様が、船の甲板上で次第に鬱憤を募らせ激高していく水兵たちの様子と交互に繋がれ、高次元の意味を可能にしています。モンタージュによって可能となる意味は、映画における前映画的要素(映画は必ず前映画的要素を素材としています)の中には決して存在せず、純粋に映画的なメカニズムであると言えます。

 素材の異なるショットを繋いで別次元の表意作用を実現する、このモンタージュは、ヴァルター・ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で提起したアレゴリー(寓意)の概念に似通っています。アレゴリーは、記号が本来の象徴的な意味を失う形で他の記号と結びつけられる手法です。ベンヤミンは『複製芸術時代の芸術作品』において、映画を、大衆の手に芸術を奪還するメディアとして注目していました。

 ベンヤミンの批判的継承者、テオドール・W・アドルノに至って、モンタージュは映画を超えて、現代的なアヴァンギャルド芸術一般の理論にまで格上げされます。『美の理論』において、現代的芸術は、細微な局面においてはすべて、モンタージュにほかならない、とされます。断片の集積であり、意味を否定し、統一されつつ混乱しているものとしてのモンタージュは、伝統的な「多様における統一」(バウムガルテン)の美学を乗りこえる旗印とされたのです。

 とすれば、現代のテクストがモンタージュであることを見失ってはならない反面、それを指摘するだけでは、何ら有効な批評になりえないのです。宮崎駿白鳥の歌ハウルの動く城』は、自作・他作からのあざとい(マニエリスム的な)引用の集積としてのモンタージュです。(あの城は、がらくたの寄せ集めです。)究極的な業績としてのテクストを、明白なモンタージュで飾ったことの効果は、いったい何でしょうか?