Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

ストゥディウム/プンクトゥム

 ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』(「暗い部屋[camera obscura=カメラ]」のもじり)に示された用語です。バルトの写真論はちょっとユニークで、まず、写真はコードのないメッセージ、つまり現実そのものだ、というものです。これは、根元的虚構論の観点から見れば、大いに疑問の余地があります。

 曖昧な視野の枠によって、球面(眼球)で把捉された両眼視による対象像という肉眼の視覚と、明確な枠によって、平面(印画紙)上に展開された単眼像という写真の映像とは異なります。(なお、その意味で肉眼像もまた、ありのままの現実ではありません。私たちの目は、メディアであり、変換装置です。ついでに言うと、耳も。)また、コードの多くの部分は読解の帰結でもあるので、その意味では言語であっても、あらかじめ用意されたコードなどはない、とも言えます。すなわちこれこそが、〝暗黒の中における跳躍〟です。

 実はこのことが、ストゥディウムとプンクトゥムという見方にも関わってきます。ストゥディウムは'studium'であり、スタディやスタジアムと同語源です。写真における「一般的関心」、いわば定常状態を意味し、ゲシュタルト心理学でいう、いわゆる「地」(ground)にあたります。プンクトゥム(punctum)は点・ポイントであり、「刺し傷」であって、写真の中の問題となる箇所を指します。いわば「図」(figure)にあたる部分です。

 しかし、事前に用意されるコードはないわけですから、プンクトゥムは一つには決まらず、受容者の介在によって規定されます。つまり、見る者によって、プンクトゥムの在処は変わってくるのです。

 『明るい部屋』は、バルトの母の映像についてのエッセーでもあり、それはバルト論として興味深いものですが、ここでの提案は、この、ストゥディウムとプンクトゥムの見方は、写真だけでなく、他の表象ジャンルにも応用できるだろうということです。絵画や映画、あるいは文芸についても、定常状態において事後的に発見される、跳躍としての、「刺し傷」を認めることです。