断片(断章)を定義すると、「全体に回帰しない部分」と言えます。元来、部分は全体との関わりで部分であるので、集合論で習ったように、全体もまた部分の一種です。部分は全体を、全体は部分を予期するので、全体―部分の関係が緊密な場合には、部分のみで全体を表現することができます(表出的全体性)。また、全体は部分の総和以上のものであるというゲシュタルト心理学や、全体は部分に優先するという全体論は、部分が常に全体を前提として存在することを含意しています。
これに対して、部分と言わずに断片と言うことは、部分がそれじたいで独立して存在することを共示します。部分が他の部分と、また部分が全体と対立する関係にある場合に、テクストは収束点を持たず、唯一の意味へと収斂せず、常に複数的な意味の次元を切り開くような、多種多様な局面を帯びることになるわけです。全体論(全体に通用する大きな物語)を否定し、個々の小さな物語の割拠を肯定するのがポストモダニズムでした。従ってこのような断片性の擁護は、いわゆるポストモダニズムの思想と近縁のものです。
ということは、ポストモダニズム批判の様々な論法が、フラグメント批評にも適用できるということです。ここでは、2つの点だけを指摘しておきましょう。まず、断片と部分との区別そのものです。テクストは、原理的にすべてが断片的であると言うこともできます。テクストの理論が、その断片性を常に念頭に置くことじたいは有効な場合が多いでしょうが、すべてが断片であるならば、断片と部分との区別が意味をなさなくなります。固有のフラグメンタルな様式などなくなり、どんなものでもフラグメンタルだ、ということでしかなくなるわけです。
もう一つは、その機能です。それじたいが断片であろうがなかろうが、何らかの全体論的な意味を持つものとして受け取られ、流通して特定の役割を果たす時、問題にすべきはその波及効果であって、断片性如何(いかん)ではない、とも言えます。これは、ポストモダニズム以後の、カルチュラル・スタディーズなどの発想であり、そのものの断片性はそれとして、それがどのようにオーディエンスを形成したのかがターゲットとされます。
ただし、断片性や断章集積形式の議論も、記号や脱構築の場合と似て、完全沸騰する前にレンジから下ろされてしまった感があります。まだまだ、もっと沸かすこともできそうです。