Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

土の中の彼女の

 何が最初だったのか、この世の営みには、憶えていないことが多いけれど、それだけは明確に憶えています。講談社文庫・黄色い背の『風の歌を聴け』でした。何にせよ、こちらが求めたわけではないのに、(この本を読んでごらんなさい)と言われて、貸してもらい、読み始めることなど、ほとんどないのに。(つるつる読めるよ)というのは、たぶん、褒め言葉だったのでしょう。

 その本を、どのように返したかも、明白に憶えています。それは、文系食堂の昼下がりでした。だからといって、私が村上春樹のよい読者(つまり、ファン、マニア)であるかといえば、恐らくそうではないのです。けれども、多くの批評家・研究者が、作家の仕事を心なく、簡単に否定しようとする態度に、私が反発を覚えるのには、この作家との出会いが、他に例のないほど、一回的なものだったことも、関与していないとは言えないようです。

 でも、もちろん、そればかりではないのです。その本は、(つるつる読める)ような代物では、ありませんでした。モンタージュ、ウィット、アイロニー、フィクション(フェイク)に充ち満ちたそのテクストは、当初、よく言われた、若者文化や都市風俗などとは別に、繰り返し引き寄せられ、気に掛かって忘れられない、重い物語をはらんでいるように感じられました。およそ、「物語」というものの、魅力も魔力も、実は、『風の歌…』という、パッチワークのようなテクストに、内在しているようです。

 後に、『羊をめぐる冒険』以後、村上さんは、ストーリーテリング・力技に傾注してゆきますが、むしろ、端的・断片的であるからこそ、初期2作(『1973年…』を併せて)や、短編集に収められた、「午後の最後の芝生」や「土の中の彼女の小さな犬」の物語性が、色鮮やかに、網膜に像を結んだのです。問題性を大きく抱えた長編が、その後、陸続と書かれるにせよ、私の出会いは、きわめて一回的であり、他に代えることのできない、物語の降臨とともに、あったのです。

 物語? それは、つづめて言うならば、死と愛です。ロラン・バルトがそんなことを述べています。その紛れもない事実に、執拗に反発しながら、にもかかわらず、それに逆らいがたく惹かれてしまう、そのように撞着した四半世紀を、私は過ごしてきたようです。その時間は、言うまでもなく、いまだ、過去のものにはなっていません。否、過去のものにしてしまうには、常に早過ぎる、と感じられています。