Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

卒業論文心構え

 卒業論文の仕上げの時期にかかってきました。私が学生だった頃は、卒業論文を書くのは一大事業で、何カ月かは夜昼逆転の生活を送ったり、大学や人前に姿を見せない引きこもりになったりするのは普通のことでした。100枚もの論文を書くのは今でも易しいことではありませんが、当時は、すべて手書きで、いったん全部下書きをしてから清書したのです。書き間違いは修正液やホワイトで直すのですが、直せないほどになると、丸めてポイ!です。400字詰めで、350字くらい書いてポイ!すると悲惨です。私の研究室では、卒論は、頭注欄のある丸善の5番という用紙に決められていましたが、卒論以外では200字詰めを使っていました。どうも先生もそうしていたようです。

 ワープロの普及により、卒論制作は格段に容易になったのですが、初めからワープロを使っている若い人は、そうとは思えないことでしょう。(同じことを私たちは学生時代、コピー機について先生から聞きました。いわく、自分が学生だった頃は、文献はすべて手で筆写したのである、と。)もちろん、問題は形態ではなく中身です。よい卒論に必要なものとは何でしょうか。

 それは、正しさでも、実証性でも、あるいは新見解でさえなく、「自分にしか言えないことを言うこと」です。正しいことや実証は、教えられます。極端な場合、指導者が課題を与え、すべての道筋を示した上で、論文を書かせることもあるでしょう。しかし、あらかじめ答が分かっているような研究に、どんな意味があるのでしょう? それに、当然、明らかにおかしな解釈や論旨は、卒論の指導教員が見て直してくれるはずです。(この「はず」は、当てにならないことも多いらしいのですが。)第一には、自分の言いたいこと、自分だけが言えることを、どしどし書いてよいのです。そして、願わくば、その上に説得力や新発見があれば、なおよいのです。でもこれらはいわばオプションです。

 学生を継続して見ていますと、最初は未熟な書き方で、言葉の誤りがたくさんあっても、とても斬新でユニークなことを書いてくることがあります。ところが、そう思って親身に指導していると、文章はソツなく書けるようになるものの、初めにあった意想外のアイディアは希薄になり、確実だがおもしろくないことしか書けなくなってしまうことがしばしばあります。

 これは、啓蒙の限界でもあり、あるいは、啓蒙の恐ろしさを教えてくれる事柄でもあります。教育を離れた、人の可能性を、教育界の住人は決して理解できません。指導して伸ばすことと、指導して損ねること。教えることとは、常にこのようなディレンマを抱えていることに、指導者は敏感でなければならないでしょう。