Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

表象のパラドックス2

 『意味という病』というのは、有名な柄谷行人氏の著作ですが、表象に常に意味があるという発想には、いまや単純に肯(うなず)くことはできません。

 テクスト化、もしくは構造化は、一般には高度な、または高次元の意味を作り出す方法であると信じられてきました。実際、複雑・精緻な創作は、豊かで多義的な意味を可能にし、そのテクストは容易に理解されない反面、容易に葬られることもなく、長く広く受容され続けるのです。漱石の小説や、チャップリンの映画、その他を念頭に置けばよいでしょう。

 しかし、明確な意味は全然結ばないけれども、異様な強度をそこに感じることができる、というような対象が、現代作品の中には溢れています。それらは、芸術の歴史に学んだ結果として、類まれな構造化を身に帯びています。表象の構造化が一定の臨界点に達した時、むしろそれは構造としての意味を解体させ、意味に代わって何らかの強度が前面に登場してくる、そう言えるのかも知れません。

 もっとも、それは特定の現代作品の場合には限らないのでしょう。私がここ十年来も温め続けてきた命題にこういうのがあります。―「表象は、それ自身を肯定も否定もしない」。あなたはどう思いますか? これはけっこう恐ろしい命題なので、この命題を真とするならば、現実的な価値判断としての批評というものは、一切無効となってしまうのです。

 次に紹介するのは、昔のある学生が演習の授業で実際に発言した事柄です。映画で知られる三島由紀夫の『憂国』は、決起した青年将校たちに同行しなかった士官が、彼らに共感するにもかかわらず、彼らの討伐を命じられ、最終的に妻ともども割腹する話です。その学生は、「この小説を読む者は誰でも、割腹の場面の凄惨さに嫌悪感を催すに違いない。だから、この小説は2・26事件を批判するものだ」と評したのです。

 三島論の常識としても、また小説一般の読み方としても、この説は受け入れられない、当時の私はそう思いました。が、一抹の疑念が残り、彼に対してはかばかしいコメントはできなかったように覚えています。『憂国』の表象は自らを否定している、そう彼は論じたことになります。それから15年以上もたって、自分で短い三島論を書いたとき、私は彼の意見を自分なりに理論化して論文に書き込みました。パラドックス、または、アイロニーの理論によれば、彼の見方も成り立たないわけではないだろう、と思われたのです。

 それはもう、作者の意図などという水準とは無関係です。表象が自分自身を肯定も否定もできないとすれば、肯定・否定に関わるメッセージをテクストに読み取ることもまたできないからです。ルネ・マグリットの『これはパイプではない』(『イメージの裏切り』)の諸作や、それにまつわるミッシェル・フーコーの著作、ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』に示された「否定性」の理論や、それこそ、ジャック・デリダ脱構築の方法などは、いずれもこのようなパラドックスに関わっているように思います。

 この問題は、これまでも色々なところで小出しに書いてきましたが、いずれ、まとまった形で発表するつもりでいます。「つもり」ですけれどね。