Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

先読みについて

 英会話の達者な先生から、「英語では先読みをしないことが大事なのよ。相手の言っていないことまで言うと、『あなたは人の心を読むのか?』なんて言われるわよ」と教えられました。日本では逆で、人の気持ちを読んで行動するのが、「気が利く」などと評価されます。

 これはコミュニケーションや、物語のあり方とも深く関わっています。コミュニケーションは、多かれ少なかれ相手の心を推測することによって支えられていますし、物語はまさしく、これからどうなるのか?、という先読みが、本質的なメカニズムを構成しているからです。

 物語については別に述べるとして、このことは、授業の方法とも密接に関わってきます。ある高校の先生によると、授業には2つの型があり、一方は先生が生徒に向けて情報を提供するタイプ、他方は先生が生徒の考えを聞いて授業を構築するタイプです。多くの授業はこの2つの要素を配合し、この両極の間のどこかに位置づけられます。

 私の授業ですが、講義については、明らかに前者のタイプです。「変異する日本現代小説」の資料は50ページ以上になり、その他にスライド資料も配付し、講義ではパワーポイントを全開に使います。こうなってしまうと、学生の反応を取り入れる余地は、ほとんどなくなります。

 演習では、どちらかというと後者のタイプで、もちろん指導し意見も言うのですが、結論じみたことは言わない(言えない)ので、最後はやらせっ放しで、感想を書かせて終わります。ところが、教員の方が情報の蓄積は多く、そこは商売ですから、学生が言いたいことをうまく言えないでいても、だいたいの場合、分かってしまうことが多いのです。先読みですね。

 しかし、こちらが先読みすることが相手に伝わると、相手はそれに依存して、自分で言葉を生み出さなくなります。常に、先生の顔色を見ながら発言するようになってしまう、これではダメです。何のための演習か分かりません。そこで、分からないようなフリをして、できるだけ学生自身の言葉を引き出そうとします。でも、一度知られてしまうと、なかなか巧くいきません。

 スピーチやプレゼンの技術はもちろん必要です。それは追って書こうと思いますが、こうしたコミュニケーションのバランスは、何も授業に限ったことではないでしょう。先読みの多い社会は、やはり、甘えの構造なのかも知れません。