Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

アイロニー

 とても散らかった部屋を見て、「この部屋はずいぶんきれいだね」と発話する時、それはアイロニー(皮肉)だと言われます。現代詩の言葉遣いはアイロニーに満ちていて、ストレートなメッセージとしては伝わってきません。例えば「詩は滑稽だ」という谷川俊太郎の言葉は、ほんとうに詩を滑稽だと述べているのでしょうか?

 アイロニーには様々な説があります。

1)「適切性条件からの逸脱」
 サール、グライス、バック&ハーニッシュらの説で、字義通りの意味と反対の主張を行う文であることを、言葉の受け手が計算しているという考え方です。これは彼ら言語哲学者によると、レトリック全般に通じるということです。しかし、ではなぜ反対の主張をしなければならないのでしょうか? それから、私たちはいちいち計算するのでしょうか?

2)「メンション・セオリー」
 スペルベル&ウィルソンの説です。つまりアイロニーとは言葉の「使用」ではなく「言及」(メンション)なので、言葉を直接使うのではなく、社会的な期待が間接的に指示され、それを満足しない状況を表現する、という説です。しかし、これは「部屋はきれいだ」には適用できても、「詩は滑稽だ」には適用できないように思われます。

3)「仮人称発話説」
 橋元良明の説です。これはメンション・セオリーの変形で、事実とは逆の評価をする仮想の人物の立場に主体を移し、その主体の発話に「言及」する発話行為である、とされます。これによると、「仮人称」なんて誰も学んだことはないはずですが、私たちは無意識にこれを使っているということになります。

 どれが正しい、などということは言いませんが、気になるのは、すべて発話行為の側からとらえており、また、アイロニーであることが明白な例にばかり即している点です。

 「詩を読む」とは詩を読むことです。詩人を読むことではありません。「詩は滑稽だ」が、果たしてアイロニーか否か、そうだとすればどのような意味か、それを考えるのは読み手の側です。これらの先行研究を念頭に置いて、読み手が各々、自分のアイロニー観を構築しなければなりません。

 新年度前期教養教育「『詩は滑稽だ』―現代詩とアイロニー」へのイントロダクションです。