Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

指導するということ

 私は助手時代までは自分の論文を先生に見てもらっていました。その頃は、いつまでもこうして先生に見てもらうのだと思っていたものです。でも、よく考えると、助手になってからは、学生時代のように添削されたり、厳しいコメントを口頭・文面で与えられることもなくなっていました。(そのうちに、原稿を出すこともなくなり、いつしか論文も送らなくなり、今ではもう、本を出したら差し上げるくらいのことしかしなくなりました。)

 私は先生からそのように論文指導をしてもらったので、全然、そのような指導を行わない指導者もけっこういることを聞いて少々驚いたことがあります。そういえば、複数の先輩・先生からの話によれば、さらにもっと上の代の頃は、原稿を持って行くと先生は読むことは読んでくれるが、「ダメ」と言うだけで返される。どこがダメなのかの指摘はない。自分で精査して、ここがダメなのだろうと修正し、次に持って行くとまた同じく返される。さらに同じことを何度か繰り返しているうちに、ようやくOKがもらえる……!

 今でもそんなことがあるのかも知れません。ただし、私は今、そうではなく懇切丁寧に指導をするのがよいと思ってこれを書いているのではありません。どのようにするのがよい指導なのか、まだ明確につかめていないのです。

 もちろん、私は多くの場合、自分が受けたのとだいたい同じように指導を行っています。しかしそれで格段に相手が伸びるかというとそんなことはまずありません。これは、5年、10年、20年とかかる過程なので、要するにそれほど長くフォローする機会がこれまでなかったというだけかも知れません。逆に、あまりにも徹底的に指導して相手があまりにも従順に受け入れた場合、いったい誰の所産なのか分からなくなってしまうこともないわけではありません。

 私はもっと若い頃に吹奏楽をやっていました。吹奏楽部の先輩に言わせると、「指導して伸ばすと言っても、厳しく批判して伸びるのが半数、褒めておだてて伸びるのが残りの半数」。私はと言えば、そもそも学生がユニークな発表をすること(というか、若い人が産出した美しい言葉=テクストに出会うこと)がとても嬉しいので、そのような場合はかなり大げさに褒め、逆に、基本的なセオリーにさえ則っていない場合には辛辣に(とはいえ、顔は笑顔で、言葉の方は残酷に)批評することが多いのです。だから、両刀遣いということになりますね。

 しかし、多少なりとも意外なことには(それとも、これは意外ではないのでしょうか)、多くの学生、ことに留学生(さらにはその留学生の先生=かつての留学生)は、「とにかく厳しく指導をお願いします」ということが多いのです。まあ、最近の先生は元々そう怖くはないですから(私がその典型ですが)、厳しく叱られるくらいがちょうどいいのかも知れません。昔はとにかく先生というものは非常に怖かったので、激しく怒られたらもうお終(しま)いだ、といわんばかりに戦々恐々としていたものです(もちろん、今でもそういう先生はいないこともないでしょう)。

 厳しく指導をする。けれども、言葉で言うのは簡単ですが、これはけっこう、難しいことなのです。一番厳しい指導は、たぶん、上に述べた無言の返却でしょう。指導を受ける者にとって、これほど大変なことはありません。しかし、考えようによっては、高い能力を持つ者に対しては、実はこれこそが一番、身につくやり方なのかも知れません。でも、現在の通常の学生に対しては、硬軟織り交ぜて、その都度の状況に即して対応するということしか言えません。よい指導とは何なのかは、指導しながら、その指導を修正していくほかにないのです。これもまた、一種の「ノイラートの舟」であると言えます。

 というわけで、例によって何も言っていないような記事です。しかし、取りあえず、何ごともまずは基本から、ということは言えます。私のゼミでは、最初に、資料の作り方、紙の綴じ方、資料番号の振り方、引用の仕方、出典の書き方についてやります。それから、口頭発表の仕方(時間厳守)、起承転結、結論は短めに……

【参考】
→初学者へのアドヴァイス集
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