Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

第4回《Session The Pure Dazai》開催のご案内

■日時 2014年11月23日(日)13時~17時30分
■会場 北海道大学人文社会科学総合教育研究棟 W409会議室

(クラーク像からメインストリートを北へ200m右側の灰色の建物)
※一般来聴歓迎

Session The Pure DAZAI 第4回
司会・北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程
山路 敦史・平野  葵

□特集 DAZAI Osamu 1940年以後

引用が開示する物語 「ろまん燈籠」―「愛と美について」―
國學院大學兼任講師
吉岡 真緒


太宰治津軽』論―序編の私、本編の私―
東北工業大学准教授
高橋秀太郎


女同士の絆―「冬の花火」論
北海道大学大学院博士後期課程
唐   雪


「斜陽」の音楽性
福岡女学院大学教授
大國 眞希


『斜陽』のオリジナリティとオリジナリティの神話
北海道大学大学院教授
中村 三春


(発表要旨は「続きを読む」をクリック)

【発表要旨】

引用が開示する物語 「ろまん燈籠」―「愛と美について」―
吉岡 真緒

 太宰治「ろまん燈籠」(「婦人画報」昭15・12~昭16・6)は、引用であることが明示されつつ提示される文書を内包する。数頁に及ぶ自作「愛と美について」(『愛と美について』竹村書房、昭14・5)の一部、入江家兄妹の連作、その連作に「剽窃」された「アンデルセン童話集、グリム童話集、ホオムズの冒険」等。連作以外は引用元が外部テクストとして存在することが分かっており、作者太宰治が何を参照したのかを明らかにする研究の所以となっている。つまり引用は引用元の記録である。と同時に、外部テクストの存在の有無に関わらず、引用として表現された以上、それは表現技法であり「ろまん燈籠」テクストの全体性に関わる機能でもある。その点から「ろまん燈籠」テクストの時空間および登場人物の設定の根拠である「愛と美について」は重視される。引用によって連結された「愛と美について」への想起は「ろまん燈籠」末尾に示唆された暴力性を反復し、それが四年前の「愛着」ある入江家と「現在ことし」の「暗い」入江家の接続の強度となる。

太宰治津軽』論―序編の私、本編の私―
高橋秀太郎
 『津軽』(昭19・11)の懐は深い。多くの論者が、『津軽』について、「Aと読まれてきたが実はAなどでは無くBなのだ」と言い、恐ろしいことにこの作品はAもBも許容してしまう。本発表では、多くの太宰研究者の挑戦を真っ向から受け止め、大体を受け入れてきた、『津軽』という怪物作品の仕組みの、せめてその一端でも明らかにしたいともくろんでいる。その方策として『津軽』の序編の内容と役割について、言い換えれば、序編で形作られる私についてまずは考えてみたい。この序編で読者の前に姿をくっきりと姿を現す私は、本編の旅(私)にも好き勝手に介入している。この好き勝手さこそ、『津軽』の生命線である。序編の私(=作者としての私)が語るこの作品を書く目的と、本編の旅をする私の目的は明瞭に異なっている。この二つの目的の自在な出し入れ振りを観察することも通して、大体の読みを受け入れてきた『津軽』の仕組みとはどのようなものかを論じてみたい。

女同士の絆―「冬の花火」論
唐   雪
 戯曲「冬の花火」(『展望』1945・6)は戦後の指導者批判と劇界の怠慢への糾弾のために執筆した「絶望の大悲劇」と太宰は述べている。ところで、人物設定について、重要な役割を果たす継母・あさが太宰の習作時代の戯曲「虚勢」(『星座』1925・8)にも登場することはあながち偶然とは思えない。
 物語の進行を牽引する数枝とあさとの関係については既に多くの先行論によって次のことを中心に論じられてきた。すなわち、「美しい母」の不貞のもたらす衝撃で理想の「桃源郷」を放棄する数枝の絶望である。しかし、「お母さんとあたしとは同性愛みたいだつた」という数枝の台詞が端的に示すように、二人の関係は単なる親子のそれにとどまらない。数枝の眼差しは、家父長制の桎梏から逃れようと試みた数枝を物心両面から援助するあさの「母性」だけではなく、常にあさの「女」という属性にも注がれる。
 本発表は、戦後という時代の文脈を念頭に置きながら、「虚勢」との類似性を分析し、数枝とあさの微妙な関係がどのように物語に関わっているのかを考え直したい。

「斜陽」の音楽性
大國 眞希
 神西清は同時代評「斜陽の問題」(「新潮」45巻2号)で、本作には「非常に微妙な音楽的構成があるような気がしてならない」と書き、その骨格が「案外なほどがつしりとした音響的構成をなしてゐる」として、全体を四つの楽章に分けて、それぞれをその物語から説明している。その音楽的な説明の中で、最後には「見よ、新らしい「聖母」のすがたが、満身に斜陽をあびて、この時くつきり地平線に描きだされる」とも述べている。この神西の同時代評は、「斜陽」の本質を捉えており、「最初期の本格的な評言」と認められ、「「斜陽」評価の一視覚を提供した」とされる(坂元昌樹「作品別同時代評価の問題点」)。実際に、先行研究で引用されることも少なくないのだが、如上の音楽性を展開し研究する例は寡聞にして知らない。そこで、本発表では、協音、不協和音、倍音などを活用しながら聴き取り、作品空間の特徴について再考したい。

『斜陽』のオリジナリティとオリジナリティの神話
中村 三春
 テクストのオリジナリティ(固有性・独自性)は何によって決まるのだろうか。近年、『女生徒』や『斜陽』その他の作品を含め、太宰が素材を他人から借用して制作した小説に対して、ジェンダーや歴史的記述などの観点から、そのオリジナリティに疑問符を付したり、あるいは原典からの改作・改竄を問題視したりする論考が行われてきた。『斜陽』に限ってみれば、そこに太田静子の日記を借用してこの小説が創作され、太宰の死後に返却され、太田の『斜陽日記』が公刊されるに至る経緯に関するいわば倫理的な審問も加わり、さらには『斜陽』の材源の一つとされるチェーホフの『桜の園』が、既に太田の日記においても投影されていたなどのコンテクストが絡まり合って、得も言われぬぐちゃぐちゃの情況を呈しているように思われる。ここでは、文芸テクストのオリジナリティとはいったい何なのかの原点に立ち返りながら、『斜陽』について再論してみたい。