Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

第5回《Session The Pure Dazai》開催のご案内

■日時 2015年10月31日(土)13時~17時30分
■会場 北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟 W409会議室

(クラーク像からメインストリートを北へ200m右側の灰色の建物)
※一般来聴歓迎

Session The Pure DAZAI 第5回

司会・北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程
山路 敦史・平野  葵


「黄金風景」の黄金性
福岡女学院大学教授
大國 眞希


太宰的テクストと聖書―『風の便り』以前以後―
北海道大学大学院教授
中村 三春


運命と人―太宰治新釈諸国噺』試論―
東北工業大学准教授
高橋秀太郎


太宰治津軽通信」論―宛先不明の通信―
國學院大學兼任講師
吉岡 真緒


反復と応用―太宰治「饗応夫人」論―
北海道大学大学院修士課程
細谷 里穂


(発表要旨は「続きを読む」をクリック)

【発表要旨】

「黄金風景」の黄金性
大國 眞希
 本作は昭和一四年三月二、三日の「国民新聞」に掲載された。同新聞社が主催した「短編小説コンクール」で優秀作に選ばれた作品である。作家論的には、昭和一四年一月八日に石原美知子と式を挙げた夜に、甲府の新居に戻り、そこで最初に書いた作品とされ、結末に「私のあすの出発」を感じるという表現があることも勘案され、「地道な再生への気概を作品化」したと読まれている。だが、一方で、相馬正一の『評伝太宰治』には「〈美談〉を成り立たせている背景に作者の烈しい自己否定が働いている」とも指摘されている。山口浩行氏は『太宰治研究事典』(勉誠出版、平7)で「善意に満ちた他者、〈私〉において浄化されたものの実体等を慎重に検討したい」とする。「善意」や「浄化」という読みを誘発する、つまりは作品を読む鍵のひとつは、題名に示される「黄金風景」の黄金性にあると言えるだろう。本発表では、独立して作品を論じる先行研究が少ない本作の黄金性について考察し、その「実体」を明らかにすることを目指したい。


太宰的テクストと聖書―『風の便り』以前以後―
中村 三春
 作者としてはかなり満を持して執筆したに違いない『風の便り』(1932・4、利根書房)は、しかし、あまり研究が進められていない。遠く「猿面冠者」の記憶を留める題名の作中作「鶴」を伴う書簡体により、老大家井原と若輩木戸の二人の小説家の間で取り交わされた小説理論に関する問答を核心とするこの小説は、さらに、私小説家・木戸が「出エジプト記」を小説にする構想を語るなど、聖書との関わりが深い。木戸は「私は大工の息子です」などと語っている(イエスの父、ナザレのヨセフの職業は大工)。ちなみに、この作品と同時期に書かれた「誰」、「恥」なども、手紙形式の叙述が重要な役割を果たすとともに、聖書からの引用が含まれる。太宰のテクストにおける書簡体などのドキュメント形式と聖書との関わりは何なのか。本発表では、ほとんど最後に残された太宰神話の牙城とも言うべき《太宰と聖書》の問題について、『風の便り』から亀裂を入れて行きたい。


運命と人―太宰治新釈諸国噺』試論―
高橋秀太郎
 お金がない、駆け落ちに猿がついてきた、武士である、親が山賊である等々、どうにも変えようがない状況のなかにいる人を描くことで『新釈諸国噺』はつくられている。運命的な状況のなかの人は、従来から指摘があるように、大いに戯画化され、そこでもたらされる笑いや余韻にこの作品集の魅力がある。一つ一つの作品は、西鶴の原典の話の筋を借りながら、説話的ともいうべきある種の型をもって描かれ、そこには西鶴原典にも似た文語体と、作者の言葉らしき近代口語体が入り交じる。 戯画化は、この文体の差をも利用して行われる。説話的な型のなかでそれこそ型どおりに終わるかに見えながら、作品によっては、最後の一文が、それまでの話の流れに独特の価値付けを施す。本発表では、運命のなかの人の形象化の方法を、語り方、戯画化、最後の一文、の3つの視点から明らかにしてみたい。取り上げる作品は、主に「貧の意地」、「猿塚」、「粋人」である。


太宰治津軽通信」論―宛先不明の通信―
吉岡 真緒

 「津軽通信」とは、中央公論社より昭和二二年七月に刊行された小説集『冬の花火』に収録された作品のうち、「庭」「やんぬる哉」「親といふ二字」「嘘」「雀」の総題である。各初出時には無く、単行本編集に際して太宰自ら付した総題であることは、昭和二一年八月三十一日付け中央公論社出版部梅田晴夫宛書簡に明らかである。五つの小説をまとめる境界(パラ)テクスト「津軽通信」は書物『冬の花火』に現れる場である。小説集『冬の花火』は敗戦後に書かれた作品のみを収録した単行本としては『パンドラの匣』(河北新報社、昭21・5)に続く二冊目であり、収録された「津軽通信」を含む作品のほとんどに敗戦に結びつくメッセージが内包されている。本発表では、「津軽通信」及び『冬の花火』の境界(パラ)テクスト性についての考察を通して、敗戦を通過するテクスト「津軽通信」に現れる無能な男、不可解な女という倫理を考察する。


反復と応用―太宰治「饗応夫人」論―
細谷 里穂
 太宰治「饗応夫人」(『光』第4巻第1号、1948年1月)は、客人が来ると異様なほど手厚くもてなす奥さまについて女中のウメちゃんが語るいわゆる「女性独白体」でありながら、中心人物となる奥さまが語り手ではなくこれまでの太宰の 「女性独白体」とは形式の異なる作品である。そしてこの物語は語り手のウメちゃんが、奥さまの「底知れぬ優しさに呆然となると共に」、人間が持つ貴いものに気づく美しき物語として完結する。「饗応夫人」は、先行研究こそ少ないものの、太宰の他の作品と同じく多義性を備えており、単なる美しき物語で終わる解釈は不十分であると思われる。本発表では奥さまの言動を分析しつつ、ウメちゃんの語りに着目することで「貴いもの」を持った奥さまの像を作り出しなが ら、饗応する奥さまを笑われる者として読者に提供する語りの様相を明らかにしていきたい。