Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

断念と発話

 教養教育「モンタージュとパロディの強度」への補足です。『官能小説家』において、桃水は自分では凡作しか書けないけれども、夏子に指導して、夏子を大成させることができそうになる。そしてまさにその際に、鴎外によって夏子を奪われるわけです。ここには、自分自身を諦め、他人の成功を期するという断念、そして、相手が大成したときに相手はもう自分の手中から離れるという断念があります。

 この断念は、誰しも能力に応じて、あるいは、例えば年齢とともに味わう感情であるとともに、書くこと、作り上げることにまつわる示唆でもあろうと思われます。完成した対象は、もはや自分のものではないのです。結果としては放棄し、その過程のみを多としなければなりません。このように、このシークェンスは、人と人、創作と人、ひいては世界と人との間にある、ある関係性について語ったメタフィクションであるように感じられます。

 ただし、そのように書かれた小説そのものは、立派に書かれて存在しています。このテクストをテクストとして構築し、提供するという営為は、単なる断念の行為ではありえません。そこには、それを公表し、(ある種の)メッセージとして発信するという戦略が感じられます。「生れて、すみません」という言葉は、少なくとも発話の肯定の上に成り立っています。

 この小説は、回路が錯綜していかにも単純ではありませんが、確かに、豊かなパラドックスとして味わうことができそうです。