表象のパラドックス
ジャンリュック・ゴダールの『映画史』3Bの章には、「我々の映画 真の映画とは 見ることのできない映画 それのみだった」というフレーズが現れます。この意味深長な発話は、ゴダールがアンリ・ラングロワのシネマテーク・フランセーズで貴重な映画作品を見て勉強したこと、また一般に上映される映画には、自分たちのための「真の映画」がないことを語るコンテクストに置かれています。この文が、パラドックスを構成していることは明白でしょう。しかし、パラドックスであるからこそそれは、避けがたい強度を帯びて、心に迫ってきます。
「意味から強度へ」をテーマにした表象文化概論で繰り返し取り上げたように、抜きん出て独自な構築を目指そうとする表象の営為は、ある臨界の水準を超えると、むしろその構築そのものを自壊させ、意味から無意味へと志向するような表現へと急変し、それと引き替えに絶大な強度を獲得します。塚本晋也、デイヴィッド・クローネンバーグ、(初期の)高橋源一郎、ピエール・ブーレーズ……。表象がその極点において、あるいはその根底に秘めて、パラドックスを身に帯びていること。それは、努めて現代的な表象に固有の課題であるように思われます。
むろん、表象の技巧が歴史的に極度なほどまでに発展したことがその最大の理由ですが、それと並行して、そこには、現代という時代において、文芸・芸術・表象が、誰にとっても手放しで尊ばれる〈大きな物語〉を提供する母胎ではありえなくなったという状況があります。そしてそれらには共通に、現代における個人・共同体・社会・世界の激変と、そこに至るまでの時間の累積、特に芸術と生命とが被ったとてつもなく大きな波が強く関与しています。『映画史』で繰り返し言及されるのは、ナチスのホロコーストの記憶にほかなりません。
円環の損傷した世界には、それに対応する力を秘めた表象こそが、高い意義を持ちます。パラドックスは、力です。
「意味から強度へ」をテーマにした表象文化概論で繰り返し取り上げたように、抜きん出て独自な構築を目指そうとする表象の営為は、ある臨界の水準を超えると、むしろその構築そのものを自壊させ、意味から無意味へと志向するような表現へと急変し、それと引き替えに絶大な強度を獲得します。塚本晋也、デイヴィッド・クローネンバーグ、(初期の)高橋源一郎、ピエール・ブーレーズ……。表象がその極点において、あるいはその根底に秘めて、パラドックスを身に帯びていること。それは、努めて現代的な表象に固有の課題であるように思われます。
むろん、表象の技巧が歴史的に極度なほどまでに発展したことがその最大の理由ですが、それと並行して、そこには、現代という時代において、文芸・芸術・表象が、誰にとっても手放しで尊ばれる〈大きな物語〉を提供する母胎ではありえなくなったという状況があります。そしてそれらには共通に、現代における個人・共同体・社会・世界の激変と、そこに至るまでの時間の累積、特に芸術と生命とが被ったとてつもなく大きな波が強く関与しています。『映画史』で繰り返し言及されるのは、ナチスのホロコーストの記憶にほかなりません。
円環の損傷した世界には、それに対応する力を秘めた表象こそが、高い意義を持ちます。パラドックスは、力です。