Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

「大人の仕事は、決してふるさとへ

 帰ることではないから」。坂口安吾文学のふるさと」を、特殊講義の『探究I』の解釈の際に参照しました。この結末近くの言葉は、多分に意味深長です。「モラルがないこと自体がモラルである」「ふるさとはむごたらしく、救いのないものだ」という、メイン・テーマよりもずっとむずかしいほどです。

 ふるさとに帰らない、とは、ふるさとを忘れることではありません。その前後に、文学はふるさとを忘れてはならない、と述べられていますから。西谷修さんの『戦争論』に、ふるさとはそこを離れるときにのみ、可能性(自分に根拠を与えてくれる)と不可能性(今はそこにいない=そこに帰れない)という二重の意味として現れてくるという意味の解説があります。まさに「遠くにありて思ふもの」です。

 では、ふるさとの感覚を抱懐しつつ、表面上はそれ以外の表現を展開するということでしょうか。その場合、ふるさと性と、この表現性とのバランスはどうなのでしょう。一見、そうでないように見えて、実はふるさと的な要素を奥に隠している、ということでしょうか。大人は、いったいどんな仕事をすればいいのでしょう?

 コミュニケーションの本質的な部分には、「暗闇での跳躍」がある。それが他者・外部・現実・歴史の顕れであり、それを注視しないのは独我論・モノローグでしかない、というのが『探究I』の主張でした。コミュニケーションを伝達としてとらえている限り、このような「跳躍」は原理的には必ず介在します。むしろ、新たなコミュニケーション観が必要となります。

 原理的「跳躍」をはらみつつも、しかもそれじたいに安住もしない、無限の更新。それが「大人の仕事」なのでしょうか。「私は海を抱きしめていたい」の結末に示されるような、「海」のような大きさ。

 どうやら私は、どこかで大人になることに失敗した者のようです。これからも考え続けてみます。