Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

孤独原則

 あなたの心は私には見えず、私の痛みはあなたには分かりません。だから、最後のところで人は孤独です。むしろ、人に囲まれているとき、活動しているときこそ、孤独は際立ちます。人は一人では生きられませんから、共同体を作り、社会を作り、ことばと情報をやり取りして力を合わせようとします。しかしコミュニケーションは常に不完全であり、その活動じたいが孤独を顕在化させます。ですから、コミュニケーションこそが孤独を生む、あるいは、コミュニケーションは孤独の反面なのです。

 また、かりそめにもコミュニケーションがなければ、お互いに何が起こるかわかりません。実際に、人と人との関わりは致命的な局面を迎えることがあります。その意味では、コミュニケーションは、孤独のフェイルセーフでもある、ということになります。

 コミュニケーションは、どんな場合にも重要ですが、どんなにそれを追求したところで、見えないものが見えるはずもなく、見えたと思ったらそれは幻想でしかありません。コミュニケーションが充満している現代の社会とは、いわば見えないものが見えるという幻想によって被われている社会です。文芸や映像は、特異な幻想を持ち味としますが、その幻想が明らかにするのはむしろ社会という幻想です。

 文芸というコミュニケーションは、孤独の表現となり、人の孤独を注視させることによって、自らのコミュニケーションを解体します。それは、沈黙のための饒舌、否定のための肯定、非論理のための論理であって、そのような形でパラドックスを構成します。

 モーリス・ブランショは『文学空間』で、ことばの体験に絶対的孤独を見出しました。坂口安吾の「桜の森の満開の下」で、鬼である女を殺した男は、彼自身が孤独自体となった、といいます。あるいは、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』。すぐれた文芸テクストは、孤独のために捧げられています。