Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

語り

 小説に代表される物語形式のテクストを、誰かが誰かに対して何かを語っているという現象として理解する方法論を、語り論(ナラトロジー)と呼びます。語り論は、さまざまに精緻化されましたが、基本構造としては、どのような「語り手」が、どのような「聴き手」に対して、「物語内容」を、どのような語り方(「物語言説」)で語るのか、を問題とする方法である、と考えれば分かりやすいと思います。

 語り論の初期においては、これらの要素の種々相を解明することが活発に行われましたが、最近では、ジェンダー批評やポストコロニアリズムなどの分析手法として応用されることも多くなっています。

 語り論の初歩は、語り手と作者を区別することに始まります。虚構や嘘の存在から分かるように、現実に語る人と、語られた文の主体とが一致しないように語るということは、日常の会話においても可能です。小説は、作者が書く文章であることはもちろんですが、人物だけでなく、その物語の語り手そのものも、作者によって虚構の存在者としてこしらえられたものにほかなりません。漱石の『こころ』を語っているのは、作中の語り手、すなわち、上・中では青年である「私」、下では遺書を書いた先生であって、漱石自身ではないのです。

 語り論の枠組は、確かに小説の緻密な分析を可能にしましたが、ある語り方がある思想的立場と、一対一的に対応するということはありません。このような語り方は、このような思想の表現に適している、とは言えても、その結びつきは必然的である、とまでは言えません。多くの場合、同じような語り方でまったく逆の思想を表現することもできます。また、人物と同様に、虚構の語り手や聴き手を過度に実体化しないことが重要です。それらは実在物ではなく、相互の関係の全体によって、テクストに繋ぎとめられているに過ぎません。

 しかし、語り論を、もはや終わった理論としてとらえるのも、他の理論についての場合と同じく、性急な見方です。方法論は、複数組み合わせて枠組を作る方が、はるかに生産的となるのです。