Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

〝感動をありがとう〟?

 そんなに簡単に、感動してよいものでしょうか? 世の中には、それほど多くの、感動すべきものがあるのでしょうか?

 何にでも興味を持ち、好奇心旺盛に見ること。学校ではそう教えますし、それはどうやら脳の老化防止にもよいようです。しかし、何にでも感動する人は、その感動を長続きさせることはできず、次から次へと感動すべき対象を取り替えることにしかなりません。興味や好奇心を持つことと、簡単に感動することとは違います。感動は、対象による自我の浸食です。いくら自我のあり方が多様だからといっても、感動ばかりしている人は、自我のあり方が弱すぎます。私は、そう簡単に感動すべきではない、と考えます。
 あなたはどう思いますか?

 記憶になぞらえていうならば、感動にも、短期感動と長期感動があるように思います。短期の典型が「感激」で、長期の場合は「感銘」です。〝感動をありがとう〟式の感激は、だいたいにおいてメディア資本の術中に嵌っているだけです。それに対して、半生、また一生にもわたる感銘が刻まれ、こころの形にまで力を及ぼすような対象との出会いは、生涯に何度もあるものではなく、またそれがそうであると分かるまでには、かなりの時間がかかるものです。その場合、感動はもはや一方的な受容ではなく、自我の側からの生成という意味を帯びています。

 私は、特殊講義の最後に取り上げた、原民喜の「鎮魂歌」を最初に読んだとき、正直に言ってよく分かりませんでした。でも、原の全集にゆっくりと取り組んで初めて、その驚嘆すべき内容が理解できたように感じました。その感動は、20年以上経った今も、ほとんど変わらずに続いています。