Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

詩を読む

 「詩は難しい。特に現代詩は」というのが、おおかたの感触と思います。確かに、詩はことばの数が少なく、従って明示的な情報量が少なく、その反面、象徴や修辞などの深い意味や言外の意味に覆われていて、解釈も理解も容易ではないと思われているようです。しかし、では小説ならば、十分に理解できるということになるのでしょうか? ことばの数が多ければ、読むのに骨が折れますし、解釈しなければならない事柄もそれだけ増えるわけです。私は、「詩は難しくない。特に現代詩は」と考えています。

 ミハイル・バフチンは、日常の言語と詩の言語とを区別したロシア・フォルマリズムを批判して、詩のことばも日常のことばも違いはない。ただ、使い方が違うだけだ、と主張しました。これはその通りなのでしょうが、実は使い方もその大半は同じです。詩のことばは日常のことばをすべて包含していて、特に現代詩の場合は、その差は小さいと思われます。詩が読めれば、日常の語法も楽に理解できるでしょうし、逆に日常会話の中にも、違う文脈に置いた場合、これは詩だ、と呼ばれるようなことばがたくさんあります。

 象徴・修辞・倒置法・省略などは、注意して見ればすぐにそれと見分けがつきます。それらを見分けるコツは確かに、詩を読む技術として身につけなければならないでしょう。でも、それは小説の主人公を作者と同一視しない、とか、推理小説で伏線を読み取る、などのコツと同じことです。もちろん、どんなジャンルにも、難物はあります。けれども、難物は難物なりの攻略法があり、それはそのような基本の延長でしかありません。

 『ひつじアンソロジー 詩編』をテキストにした講読でも、いろいろな読み方が出てきたわけですが、基本をクリアした上での解釈の方向には、正解などというものはありません。自由に読んでいいわけです。また、詩は小説のように長い時間拘束される必要もありません。そういうわけで、詩を読むことは、忙しい現代人に合った、とても楽しい行為だと思います。