Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

フレーム(概念枠)

 フレームということばは、様々な理論において多様な意味で用いられます。一般的な枠組の意味から、かなり特殊な用法までありますが、共通なのは、対象を対象と見なすことじたいに介在する、ある分節化(区分)の操作または基準という要素です。単純化すれば、ものの見方・見え方・し方・言い方の枠組です。

 最も典型的なフレーム理論は、マーヴィン・ミンスキーの『心の社会』(産業図書)に述べられたものでしょう。ミンスキーによれば、心の作用はすべてフレームに依拠しており、心というのは結局、無数のフレーム(モジュール)の集合体にほかならない、ということになります。たとえば、ドアノブを手で握る、ドアを開く、部屋に入る、椅子に腰を下ろす、などの行為は、それぞれがフレームの働きであり、また全体としてもフレームを構成します。

 人は何万というフレームを持っていて、それを習得したり、組み合わせたり、変形したりして現実に対処するということです。フレームがなければ、対象を対象としてとらえることができません。生まれたばかりの子どもは、目が開いていても対象を認知することができないと言われています。同じく、小説論も映画論も知らない人は、それらを「論ずる」ことはできません。

 ですから、「学ぶ」ことは何らかのフレームを学ぶことと考えられます。もちろん、スポーツのルールを学んでもすぐにプレーできるわけではないように、文芸理論を知るだけでは実践できません。むしろ、獲得したフレームをこわしたり、揺り動かすことでこそ、真に実地に応用できるとも言えます。分析哲学、科学哲学、認知科学、心理学その他、またそれらを応用した幅広い分野で、フレーム理論は各々の形で取り入れられています。

 もちろん、フレーム理論にも批判があります。フレームを実体化しすぎると、いわば主観と客観、主体と客体の二元論の様相が強くなり、硬直した発想と化します。また日常的に、意識しなくても体が動くという場合、私たちの身体がフレームを用いていると、果たして言えるのでしょうか。フレーム理論も一つのフレームとして、こわしたり、揺り動かしてみるべきなのです。