Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

メタフィクション2

 メタフィクションの基本構造は、自己言及性(再帰性)にあります。すなわち、フィクションがフィクションについて言及することです。ジャンルは多岐にわたり、小説・詩・演劇・映画・絵画などの表象テクストは、いずれもメタフィクションを生んでいます。また、言及の仕方も無数にあると言ってよいでしょう。ここでは、メタフィクションの代表的な2つの形式を挙げてみます。

1)「同形対応型メタフィクション

 小説が小説というジャンルへの言及を含むことは容易であり、それが、その小説じたいへの言及となることも珍しくありません。このような自己言及性の究極の形が、その小説の物語内容が全面的に、あるいはかなりの程度に、その小説そのものについての言及である場合です。

 堀辰雄の『美しい村』は、〈美しい村〉という作品を書きつつある人物の物語です。ところがよく読んでみると、〈美しい村〉は『美しい村』と同じか、きわめてよく似た作品であることが分かります。いわば『美しい村』は、それじたいが生成される物語を中心として成り立っているということになります。このような形式を、私は「同形対応型メタフィクション」と呼んでいます。

 これは、ある意味ではメタフィクションの王道をいくタイプです。前に述べたジイドの『贋金つかい』も、このタイプの一角を占めるものです。

2)「作品執筆構想挫折型メタフィクション

 小説が小説創作の方法やプロセスについて言及している場合、それはメタフィクションであると言えます。その中でも、小説を構想し、あるいは執筆を始めるが、どうしても書くことができず、挫折してしまうという物語があります。これは日本文学にはけっこう多いのです。このタイプを、「作品執筆構想挫折型メタフィクション」と呼んでいます。

 このタイプを量産したのは太宰治であり、安藤宏が「小説の書けない小説家の物語」として追究しています。特に太宰の「猿面冠者」は、小説に通じすぎた挙げ句、何も書けなくなってしまった男の物語ですが、さらにそのうえに、そんな男がもし小説を書いたらどんなものができるだろうか、という自問自答が動機となっています。

 小説ジャンル終焉への意識と、その中における小説の可能性への問いかけが内在された、先鋭なメタフィクションです。