Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

様式と技術(映画の)

 映画史の講義は、少しなりとも映画に興味のある学生が受講すると思われますが、それでも大半の学生が、「サイレント映画をまともに見るのは初めて」ということです。それも、瞳を切り裂く映像から始まる、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』などから見せたりするので、驚きが大きいのかも知れません。でも、欧米や日本のサイレントの名作をいくつか見るうちに、「サイレントって、もしかしてすごいのでは?」と感じることも多いようです。

 私もそのように感じた一人です。D.W.グリフィスやチャップリン、あるいは小津の、サイレントの名作を続けて見ると、音の入った映画(トーキー、というのですが、現在の映画をトーキーと呼ぶ人はいないでしょう)がなぜか、不自由に(この「不自由に」には傍点を振ってください)思われてしまいます。もちろん、音や声が映画の大きな要素であることに間違いはないのですが、それらを方法論的自覚の上に立って、適切に用いているフィルムばかりではありません。

 ことは、音声だけの問題ではないように思います。すなわち、テクノロジーが進歩して、自由に何でもできるようになれば、映画のスタイルも進歩したと言えるのかというと、そんなことは全くない、と断言できます。スタイル(様式)は並立するので、優劣を決めることはできない、ということもありますが、それ以上に、限界づけられた技術の中で、最大限に出来る限りのことをなしえた時こそ、テクストが、スタイルとして最も印象深いものとなるということかも知れません。

 アルフレッド・ヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーとの対談『映画術』の中で、トリュフォーの問いかけに応じて、映画の技術の大半は、既にサイレントの時代に完成されていたというようなことを述べています。この場合の技術は、テクノロジーというよりもスタイルに近いようでもあります。ヒッチコックが、TVメディア時代にも違和感を持たない作家であっただけに、この言葉は意味深長なものに思われます。