Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

パラダイム

 トーマス・S・クーン『科学革命の構造』で提唱された、科学史の用語です。自然科学の歴史は直線的な発展の経過ではなく、相容れないパラダイムの交替の歴史である、と説きます。パラダイムは、専門母型とか、規範的教科書として言い換えられます。専門はディシプリンの訳です。

 ディシプリンは、理論のフレームを提供し、それを信奉する教師と生徒の集団を形作り、それらによって市民権を得るような、学科・専攻とその共同体のことです。「○○学は、まだディシプリンを形成していない」と言えば、それらが脆弱で、まだ学問として十分に認められていない、という意味になります。

 規範的教科書としては、たとえばユークリッドの『原本』、ニュートンの『光学』や『プリンキピア』などのテクストそのものを指すことも、またそのテクストが提示した理論のフレームを指すこともあります。ニュートンアインシュタインの体系は相容れず、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とは相容れません。

 新たな理論が、十分に支配的な指導力を発揮するとき、そのテクストはパラダイム転換(シフト)を行った、と言われ、特に20世紀初頭におけるその一連の現象を科学革命と呼びます。

 規範的教科書は、単に理論の枠組を提示するだけでなく、その理論の枠内にある限り、今後解決しなければならない課題を示す問題集という性質も兼ね備えています。アインシュタイン相対性理論を発表した時には、まだそれを実証するだけの完璧なデータは揃っていませんでしたが、その後の研究がそれを裏づけていったのです。

 このように、あるパラダイムの枠内で、そのパラダイムが提起する課題を解決しようとする科学を、通常科学と呼びます。  パラダイム論は、20世紀の科学革命にだけ通用するので、普遍的な理論ではない、あるいは、パラダイムというような大きな物語は、もはや崩壊した、というような、ポストモダニズム的なパラダイム批判も現れました。ただし、パラダイム論は科学史だけでなく学問論一般に通じる要素を持っているので、パラダイムという用語はクーンの原義を離れて、あらゆる分野で用いられるようになりました。

 そのうちに、他の流行語と同じように、パラダイム論そのものについての再検討はどこかで忘れられ、その反面、科学や学問のあり方、特にその倫理に関する論議は、相も変わらず、しばしば世界のマスコミを騒がせています。剽窃、捏造、盗作……。

 差し当たり、次のことだけ指摘しておきます。人に認められ、人を認めさせる契機となりうる多くの業績は、そのほとんどが通常科学です。真に革新的な研究は、容易に人には理解できないものです。

 私たちは、結果として通常科学に終わることが多いとしても、自分にできる限りの努力を払い、何らかのパラダイム・シフトを目指すべきではないでしょうか。

(もちろん、通常科学的な営為を否定する気は毛頭ありません。通常科学の学習と積み重ねの中からしか、新たなパラダイムは現れないのですから。)