Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

倒置法

 知っていますよね?、倒置法のことを。言うことができますか?、その機能を。多くのことが、まだ書かれていない、と思われます。書くべきことが、まだある、という感覚が、書くことを始めさせます。

 倒置法なんて、詩を読む際の基本です。中学校でも教わるかも知れません。倒置法は、正叙法と比べると、文体に屈折を与えることによって、内容を強調したり、余情・余韻を添加したり、要するに抒情の強度を増大させる、というのが、一般に知られている倒置法の意味なのだろうと思います。しかし、どんなものも程度の問題です。むちゃくちゃ倒置法ばかり用いている詩人がいたとすれば、すべてが強調され、すべてが余情的ということになり、抒情の水準は高止まりして、畢竟、何も強調されていないことにはならないでしょうか。

 その典型が、立原道造の詩であり、そのことを正しく指摘したのが、菅谷規矩雄です。菅谷は、『近代詩十章』に収められた立原論において、それまで、名声高い研究者らによって、恋愛だの恋人だの軽井沢だのといった、おきまりの実生活に癒着したあほんだらな観点からしか読まれてこなかった、この珠玉の詩人の詩を、その珠玉の地平、すなわち言葉遣いじたいの審級において、およそ初めて、定位し直したのです。

 菅谷の立原論は、素晴らしいものです。一言でいうと、倒置法は、ある臨界の線を越えると、指示対象を無化し、主体・客体の構造を解体し、記号が何ものかを表現するという機能を自壊させて、それじたいとしての自立的な呈示を行う、ということになります。菅谷はこれを、「錯叙」と呼んでいますが、これは倒置法だけでなく、あらゆる文体構造の錯雑化を含む用語でしょう。倒置法のほかにも、「錯叙」には無数の型があります。

 私は菅谷の立原論「幸福な詩人の不幸な詩」を第一級の詩論として認めます。しかし……菅谷でおしまい、なのでしょうか? この線をもっと延ばしてみる余地はないのでしょうか。考えるべきこと、書くべきことが、まだまだ残されているはずです。菅谷のいうことに対しても、厳密な検証の必要があります。ぜひ、あなたもトライしてみてください。冗談は言いませんよ、私は。