Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

加害者意識

 差別・抑圧された弱者の立場に立ち、その状況を作り出している制度・権力者・大衆を批判する。そのような被害者意識の観点からする批評は、力を持ち、人を説得する技に長(た)け、即効的かつ直接的なインパクトを持つことができます。ジェンダー、植民地、戦争……。多くの現実は、そのような弱者の視点からのみ、明晰に見えるものなのかも知れません。

 私もまた、自分が弱い人間だと感じ、様々な被害から、多くの係累・制度・組織によって守られている実感を否めません。しかし、私は、単純に被害者側に立つことはできないと思います。私は自分の中に、悪・欺瞞・攻撃性を認め、それによって常時、誰かを苦しめているという印象を消し去ることができません。私は、明確に強者の側にいます。一般的にも、単純な弱者、単純な被害者は、希な場合と思われます。(それが、ないとは言いません。)

 あの日、夏の日差しの中で、他の何ものでも取り替えの利かない多くの命が失われ、今でもなお、失われ続けています。けれども、戦(いくさ)がやってきたのは、ほんとうに海の向こうからだったのでしょうか? あの日、鉄の雨に打たれ、死んでいったのは、私の父だけなのでしょうか? それが痛切な体験であるだけに、テクストは常に、その痛切さを表象すると同時に、それを相対化する契機をも宿しているのではないでしょうか?

 加害者意識を自覚し、それを取り込んで、その構造を全体として批判・告発するべきだという主張もあります。まさか、理論的指導者たちは、自分が無色中立で純粋な正義の味方だなどとは、思っていないことでしょう。自分が虐(いじ)められ、差別を受けた体験を拡大し、あるいは他者の体験を代行し、自分が現在ある立場の加害性を認識していないなどということは……。

 私が戦争について書いた唯一の論文である原民喜論は、私にとってはとても大事なものです。私はそれ以来、戦争について一度も書いていません。これからも容易には書かないつもりです。ジェンダーポストコロニアルについて述べる際にも、書き方において一線を画しています。元気のいい、告発の書をいくら読んでも、よく勉強してるな、とは感じますが、正しい、とか、おもしろい、とは、全然思えないのです。