Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

作者

 ロラン・バルトの「作者の死」「作品からテクストへ」に代表されるように、テクスト読解の際に作者のコードを利用しないことが、いわゆるテクスト論の徴表であるかのように見なされています。しかし、テクスト論を離れても、作者のコードを過大視するのが一般的とは言えません。むしろ、常に、「作者は、作者は」と遡及する受け取り方の方が、狭隘なものと私には思われます。

 虚心に考えてみてください。あなたがもし創作家であったとして、自分が苦労して作り上げた言葉や映像そのものはどこかに放って置かれて、そこに見出される自分の思想や性質や生活の痕跡だけが虎視眈々と狙われ、針小棒大に拡大されて取り沙汰されるとしたなら、あなたは虚しくないでしょうか? より理論的には、言語や映像の表象は、第一に表現された表意体(シニフィアン)として受け取られるのであり、思想にせよ生活にせよ、そこから理解される意味内容(シニフィエ)を、それは常に超えてゆくものと言えます。

 映画やアニメのような、製作過程が集団的であり、製作結果が集合的であるテクストにおいては、なおさらのことです。すなわち、映画の創作家は、何も監督だけではなく、脚本・音楽・美術など、それぞれの責任者があり、また何よりも、演技をし表情をつくる俳優もまた、一種の創作家であるわけです。(各々の関与の程度は場合によって異なります。)また、出来上がった映画は、多かれ少なかれモンタージュなのであって、どんな映画でも無数の要素に分解することができ、そこに唯一の主体のみを想定することは、到底、できない相談なのです。

 しかし、作者の情報もまた、テクストの要素やテクストを理解するための要素であって悪い理由はありません。必要な限りにおいて、作者の情報を参照することは間違いではないでしょう。しかも、作者の情報を意図的にテクストに導入することによって、テクストのスタイルを独自なものにしようとする試みは少なくありません。作者のコードを排除することが主眼なのではなく、ただ、テクストの豊かさを矮小化してしまうような、その極端な援用は、創作された対象を受容する際には、本末転倒の結果しか導かないのだということなのです。