Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

品評をしないこと2

 MG表象文化論の一節「私は嫌いな食べ物がないので何でもよくかんでおいしく食べます。文芸や映画も同じです。考えてごらんなさい、大きなお皿にごちそうが並んでいて、ただ1コだけ、とてもすっぱい食べ物がのっている。それを理由として、ごちそう全体を食べないなんてことは、実にもったいない話です」。これは『ディア・ハンター』のベトナム描写に絡めて話したことです。

 とはいっても、もちろん好きなもの・嫌いなものが全然ないわけではありません。でも、どんなものでも、全く食べられないということはありません。表象テクストが作られるには、それなりの理由が必ずあったわけであり、また、自分の好みでない・自分には理解できない、というものこそ、実はその後の自分にとって重要なものを隠していた、ということもありえます。

 編集部や出版社に依頼されて書く論文や項目には、えーこんなの書かなきゃなんないの、というようなものが、ままあります。でもやっぱり、書いてみて、何も得るところがないということはありません。逆に編集者の方からすれば、執筆依頼は、こちらから頼む以上は、よほど変なものでない限り認めざるを得ないわけですから、一種の「暗闇での跳躍」のように、何が出てくるかわからないという、やはり外部的体験であるわけです。

(なお、「暗闇での跳躍」の話ですが、人は真っ暗闇では、たぶん跳んだり跳ねたりはしないものです。これについては、また改めて書きます。)

 正邪好悪を断定して、改善を迫るか、唾棄する、そのような辛辣な批評態度が、時として、読者にとっては胸のすくほど気持ちの良いものであり、作者にとってはむしろ励みになる、ということもあるでしょう。しかし、私には、自分にとって分からない、認めがたい、好きじゃない、というようなものほど、大事にしなくてはという感覚がどこかにあるのです。自信がないということもありますけど。この二つは分かちがたいものですね。

 そういうわけで、だいたいどんなものでも、おいしく食べます。もっとも、そう言いながら、けっこう批評してますけどね。そもそも、食べる以前に、オーダーすらしないよこんなもの、とか。