孤独原則2
マリオ・バルガス=リョサは、そのフローベール論『果てしなき饗宴』で、自分はエマに恋をした、ここ20年来の『ボヴァリー夫人』ブームで、多くの人がエマのことを言うのが堪らなく気がかりだ、でも、安心なことに、自分の愛するエマは、虚構の世界にいるので、どんなにライヴァルが躍起になっても、彼女は私だけのものとして、いつまでもそこにいるのだ、という意味のことを述べています。バルガス=リョサがテクストで出会い、そこまで愛したものは、いったい何でしょうか?
テクストの体験。それは、一人の、または、多くの他者との出会いであることに間違いはありません。その他者は、現実の他者と同じく、理解の契機があるように感じられたとしても、結局は心から交わることのできない、ディスコミュニケーションとしてのコミュニケーションの相手にほかなりません。バルガス=リョサが愛したエマ、それは、その告白の後で彼が綿々と書き綴っている、精緻で愛すべきテクスト分析によってこそ立ち現れた、彼だけのホログラフィに過ぎないのです。
孤独は人間にとって大事な時間であり(ドストエフスキー『死の家の記録』には、シベリア流刑地で何が耐え難いと言って、四六時中、他人と一緒であること以外にはない、という記述が見えます)、そしてテクスト体験ほど、純粋な孤独はありません。(たとえ複数的な受容の場であったとしても)文芸や映画の体験は、仮想の他者や、仮想の自己とのみ向き合うことのできる、自分で自分を見つめる、希有の場であると言えます。変な言い方ですが、作中人物とは、私の、純粋な孤独の同伴者にほかなりません。
テクストの中で、私は多くの人物と出会いますが、実は、誰とも出会っていないのです。誰とも出会っていないのですが、実は、多くの人物と出会っているのです。テクストに、外部というものはありません。それは、他の何ものかの、引用であり、反復であって、入出力の回路は無数に広がっている反面、どこをたどっても、現実や本質には到達できず、他者との繋がりも、断絶とよく似た交流でしかありません。
でも、だからこそ、そこで人は、そのような境地としての、純粋な孤独に出会うことができます。そうした場所は、他にもあるでしょうが、最も身近なところとして、小説・詩・映画が挙げられるのです。
テクストの体験。それは、一人の、または、多くの他者との出会いであることに間違いはありません。その他者は、現実の他者と同じく、理解の契機があるように感じられたとしても、結局は心から交わることのできない、ディスコミュニケーションとしてのコミュニケーションの相手にほかなりません。バルガス=リョサが愛したエマ、それは、その告白の後で彼が綿々と書き綴っている、精緻で愛すべきテクスト分析によってこそ立ち現れた、彼だけのホログラフィに過ぎないのです。
孤独は人間にとって大事な時間であり(ドストエフスキー『死の家の記録』には、シベリア流刑地で何が耐え難いと言って、四六時中、他人と一緒であること以外にはない、という記述が見えます)、そしてテクスト体験ほど、純粋な孤独はありません。(たとえ複数的な受容の場であったとしても)文芸や映画の体験は、仮想の他者や、仮想の自己とのみ向き合うことのできる、自分で自分を見つめる、希有の場であると言えます。変な言い方ですが、作中人物とは、私の、純粋な孤独の同伴者にほかなりません。
テクストの中で、私は多くの人物と出会いますが、実は、誰とも出会っていないのです。誰とも出会っていないのですが、実は、多くの人物と出会っているのです。テクストに、外部というものはありません。それは、他の何ものかの、引用であり、反復であって、入出力の回路は無数に広がっている反面、どこをたどっても、現実や本質には到達できず、他者との繋がりも、断絶とよく似た交流でしかありません。
でも、だからこそ、そこで人は、そのような境地としての、純粋な孤独に出会うことができます。そうした場所は、他にもあるでしょうが、最も身近なところとして、小説・詩・映画が挙げられるのです。