Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

対話/ポリフォニー

 ミハイル・バフチンの文芸理論の代名詞となった概念です。『小説の言葉』では、小説の語り手はイデオロギー的な存在であるというテーマとともに、小説の語り手の声は一つではなく、由来を異にする複数の声が葛藤を繰り広げる対話の声であるとされます。『ドストエフスキー論』では、ドストエフスキーの小説では、複数の人物と語り手がいずれもあい拮抗した強度をもってテクストを構成し、どこにも唯一の中心を見出すことができない有様を、ポリフォニー(多声音楽・多声性)と名づけています。

 このことから分かるように、対話/ポリフォニーは、複数の声が作り上げる調和的統一とは異なります。むしろ、あい容れないイデオロギーをもった複数の主体がぶつかり合い、対決・葛藤・係争を繰り広げるテクストの様相をとらえたものです。『ポリローグ』で「係争中の主体」を論じたジュリア・クリステヴァの理論にも、バフチンの対話/ポリフォニーの説が大きく取り入れられています。特に、文芸用語としての「対話」は、日常的な用法とはだいぶ異なるので、注意が必要です。なおこの概念は、バフチンカーニヴァルの理論とも通底するものと思われます。

 この概念は広く普及しました。記号の反復・引用可能性を説くジャック・デリダエクリチュールの理論や、テクストは記号の生成段階においては他の記号との混沌とした相互関係にあるとするクリステヴァのインターテクスチュアリティの説などを考慮に入れるならば、対話/ポリフォニーは、特定のテクストではなく、濃淡の程度の差はあっても、あらゆるテクストに適用される概念ではないかとも考えられます。私としては、立原道造が晩年近くに説いていた「対話」が気になります。

 中原中也論や堀辰雄論で、立原は詩に「対話」を求めたのですが、バフチン的な対話/ポリフォニーからすると、立原の詩は通説のように、いかにもモノローグに見えます。しかし、恋愛詩についての詩、詩的な図式である立原のテクストは、そこに読者が容易に参入し、読者との間における対決・葛藤・係争を生ずる格好の条件を提供しているように思われます。むしろ、あまりにも強度に満ちたカーニヴァルを繰り広げているような饒舌なテクストの場合、読者は観客か批評家にしかなりえません。対話/ポリフォニー受容理論的な局面です。