Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

空のキャデラック

 ジャンリュック・ゴダールが『映画史』その他でアメリカ映画、特にスティーヴン・スピルバーグを批判したことは知られています。クロード・ランズマン監督の『ショアー』が公開された後、ゴダールやランズマンの間で映画の可能性が論議され、返す刀でスピルバーグ監督『シンドラーのリスト』が知識人たちから酷評されたことも、記憶に新しいところです。

 ところで、私は『シンドラー』を感動して見ました。DVDで繰り返し見ました。私の表象に対する基本的な立場の一つに、完璧な表象や正しい表象などというものはない、という命題があります。この映画に、批判されるべきポイントが多数あったとしても、それがすぐれた表象であることを否定する理由にはならない、と考えます。

 オスカー・シンドラーは最後の場面で、「まだ車もある、釦もある。これを売れば、もう一人くらいの生命は助けられたかも知れない」と言って泣きます。この映画の物語設定からすれば、確かにそうだったでしょう。「いや、あなたはもう十分に救った」と慰められて、彼は収容所を後にします。私にとっては、このショットの細部だけでも十分です。

 私の父の書棚には、『決して忘れはしない ナチス虐殺の記録』という写真集がありました。小学生の私は、骨と皮だけで、目ばかり大きく、腹の突き出した男や子どもたち、シャワーと言われてガス室に全裸で向かう女たちの行列、無造作に積み上げられた死骸、死体から収集された眼鏡、毛髪、金歯の山、およそ人間が人間に対してなしうる、最低最悪の行為の映像を見ました。

 また父は、南方や洋上で傷つき死んでいった、多くの兵たちの記録文学をたくさん揃えていました。砲塔から入った銃弾が戦車の乗員たちの肉体をどのように切り裂くか、逃げ場のない甲板で砲撃を受けたとき、人体がどのように破砕するか、板きれ一枚につかまって大洋の中心に浮かび、幾夜を過ごすとは何か……幼い私の想像力は、それらによって養われました。

 『太陽の帝国』に、虐殺の場面はありません。しかし、ジムの心は虐殺されたのです。彼は軍事的支配者側の子どもでした。けれども、子どもに罪はありません。収容所を攻撃した戦闘機に喜び、次の瞬間、それが飛行場を破壊すると言って憤り、「ママの顔が思い出せない」と泣くジム。私は、いかなるイデオロギーも、これら細部の表象の強度に対抗することはできないと思います。