詩を読む2
「詩は滑稽だ」とは、谷川俊太郎「世間知ラズ」の一節です。これをタイトルに借りて、前期のYU教養教育では、抒情から反抒情への現代詩の流れを概括し、『ひつじアンソロジー 詩編』をテキストにして、具体的に詩の読み方を解説しています。詩の読み方として、最初に前提に挙げた3つの項目を紹介してみましょう。
1)「詩を読む」とは、詩を読むことである。
馬鹿みたいなフレーズですが、その真意は、詩を読むことは詩の言葉遣いを読むということであり、それを書いた詩人について、何事かを知るということではない、ということです。「作品からテクストへ」ですね。ただ、大事なことだと私は思います。これまで、大先生と呼ばれたような研究者が、いかに、朔太郎や中也や立原の、恋人や病や故郷についての探索をもって、彼らの詩の読解だと強弁してきたことか! その死屍累々の阿呆んだらな研究史を知ることも、あるいは、学問なるものの真実を知るためには重要なことかも知れません。(これはアイロニーです、言うまでもなく。)
2)詩に、正解はない。
もちろん、言葉の意味や「てにをは」の最低原則を誤ってはいけませんが、詩も言葉である以上、言葉の多義性に従って、その意味は無数に考えられるはずです。小説や映画の解釈が無数にあるように、詩の解釈も無数にあるのです。それを一つに決めなければならないのは、学校で先生が点数をつけるためでしょう。読解と読解との間には、いわば強度=説得力の差はあります。しかし、その強度は、結論的正解から来るのではなく、いかにしてそこに到達するかの過程そのものに宿るのです。○×式、穴埋め式のテストで、詩を読まれて堪りますか。詩は、自由に読みましょう。むろん、小説も映画も、です。
3)詩は難しくない。だが、読解には技術が必要だ。
ただ、「自由に読む」とは曲者です。言葉は、通常誰もが習得している自在な持ち物と思われますが、詩には詩の、小説には小説の、歴史があり、技術があります。人の営為が培ってきた時間の蓄積を学ばなければ、自由に詩を読むことはできません。教習所に通わないと車の運転ができないのと同じです。しかも、技術は、その大半が教え、学ぶことができます。詩的感性だけは真似できない、というのは、やったことのない人だけが言える嘘です。詩の読解にも王道はありません。ひたすら、読んで、書くこと、これです。
1)「詩を読む」とは、詩を読むことである。
馬鹿みたいなフレーズですが、その真意は、詩を読むことは詩の言葉遣いを読むということであり、それを書いた詩人について、何事かを知るということではない、ということです。「作品からテクストへ」ですね。ただ、大事なことだと私は思います。これまで、大先生と呼ばれたような研究者が、いかに、朔太郎や中也や立原の、恋人や病や故郷についての探索をもって、彼らの詩の読解だと強弁してきたことか! その死屍累々の阿呆んだらな研究史を知ることも、あるいは、学問なるものの真実を知るためには重要なことかも知れません。(これはアイロニーです、言うまでもなく。)
2)詩に、正解はない。
もちろん、言葉の意味や「てにをは」の最低原則を誤ってはいけませんが、詩も言葉である以上、言葉の多義性に従って、その意味は無数に考えられるはずです。小説や映画の解釈が無数にあるように、詩の解釈も無数にあるのです。それを一つに決めなければならないのは、学校で先生が点数をつけるためでしょう。読解と読解との間には、いわば強度=説得力の差はあります。しかし、その強度は、結論的正解から来るのではなく、いかにしてそこに到達するかの過程そのものに宿るのです。○×式、穴埋め式のテストで、詩を読まれて堪りますか。詩は、自由に読みましょう。むろん、小説も映画も、です。
3)詩は難しくない。だが、読解には技術が必要だ。
ただ、「自由に読む」とは曲者です。言葉は、通常誰もが習得している自在な持ち物と思われますが、詩には詩の、小説には小説の、歴史があり、技術があります。人の営為が培ってきた時間の蓄積を学ばなければ、自由に詩を読むことはできません。教習所に通わないと車の運転ができないのと同じです。しかも、技術は、その大半が教え、学ぶことができます。詩的感性だけは真似できない、というのは、やったことのない人だけが言える嘘です。詩の読解にも王道はありません。ひたすら、読んで、書くこと、これです。