Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

暗黒の中における跳躍

 ソール・A・クリプキウィトゲンシュタインパラドックス』で問題とされ、柄谷行人『探究I』などが大きく取り上げた概念です。もともとは、後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』などで述べられた「言語ゲーム」の理論、すなわち、言語のルールが共有されるか否かは発話されるまでは分からず、ルールは事後的にのみ見出されるのであり、ルールが共有されず、コミュニケーションが成立しない状況が常にありうるとする思想から来ています。その際、発話は「暗闇での跳躍」になるのだ、と。

 柄谷氏は、言語を共有する者同士における「語る―聴く」という対称的な関係に対して、ウィトゲンシュタインが対置した「教える―学ぶ」関係は、異質な言語ゲームに属する非対称的な他者との間におけるコミュニケーションである、とします。これこそが本来のコミュニケーションであり、逆に、対称的なコミュニケーションは、自己の内省を他者に広げるモノローグに過ぎず、歴史上、多くの哲学はそのように独我論に陥り、共同体の外部には到達しえないと言われます。

 柄谷氏の『探究I』は、商品が貨幣と交換される「売る―買う」関係を「命がけの飛躍」と呼んだマルクスをはじめとして、このような非対称的コミュニケーションを各々の立場で表現した思想家たちを次々と再評価してゆきます。また、コミュニケーションの不可能性の主張ではなく、理論的に不可能であるコミュニケーションが、現実には存在しえていることに対する驚きが、その根底になっています。

 人口に膾炙したこの説には、多々学ぶべきことがあります。しかし、現実はどうなっているのか。相手がまったくどんな人か分からなければ、「教える」ことはできず、また、物を「買う」かどうかは、値踏みをして決めるはずです。真っ暗闇で、いきなり飛び跳ねる人はいないように、コミュニケーションには、「探りを入れる」段階があります。他者の概念枠を「学ぶ」のは、自己の概念枠から出発し、それを広げてゆくしかないのでは? もちろん、どこかで「跳躍」の過程はあるのでしょうが、それにしても、跳ねても転倒しないような、フェイルセーフの仕組みがありそうに思うのです。 

 そんなことを、ドナルド・デイヴィッドソンの「通過理論」に触れて書いたことがありますが、ただ、それ以後、別のことも考えています。私たちが、真に深く考えることができ、書くことができるのは、受け入れられる体験よりも、拒絶される体験によってではないでしょうか。私の思いを理解しないあなた、あなたの言葉を受け止められない私を見つめるときに、思考は殻を破って、他者の側に出て行くのです。「共約不可能性」こそが、文化を作るのです。あなたが私にとっての壁になるとき……もちろん、それは、厳しく、つらく、悲しい体験なのですが。