Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

近代・ポスト近代

 チャールズ・ジェンクス『ポストモダニズムの建築言語』は、建築の近代主義が、単一の機能や価値観を追求してきたのに対し、多様な価値の共存と折衷を認める建築様式を、ポストモダニズムと呼びました。ジャンフランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』は、それを思想的パラダイム論や学問論として再定式化したのです。

 すなわち、近代を席捲した〈大きな物語〉は解体し、小さな物語が個々に正当性を標榜する時代が訪れ、しかもそれは包括的な正当化ではなく、一種の擬似的正当化(パラロジー)でしかない、と。ここから、文化・社会・芸術などに関する、ポストモダニズム論議が発生したのです。〈大きな物語〉とは、マルクス主義フロイト主義に代表されるような、世界を一挙に解明する全体論的な思想と考えてよいでしょう。

 私は、啓蒙や全体論に対する徹底的な懐疑を主張する、リオタールやアドルノの発想には、有効な部分が多いと考えています。私たちの中には、どうしても、学びたい、啓蒙されたい、圧倒的な力で包容されたい、という(近代主義的な)欲求が宿っていて、そのような向上心にも似た感性を相対化するのに、反啓蒙の断片主義は有効であると考えます。

 しかし、他方では、スチュアート・ホールが言うように、世界にはまだ近代が訪れていない地域すらあります。もしも完璧に世界がポストモダン化してしまったら、生産や生存に関わる第一次・第二次産業的基盤はなくてもよいのか、というとそんなことはないのです。ある種の次元においては、近代が追い求めてきた価値観が滅びることもまた、根拠の薄い事柄のようにも思われます。

 すなわち、近代とポスト近代とは、常に同居し、入り組んでいるのです。むしろ、こう言うべきかも知れません。ポスト近代、あるいは、より限定的に、ポスト=ポスト近代とは、近代的価値と反近代的価値との折衷状態である、と。近未来SFフィルムで、近未来を手放しに薔薇色の世界として描くものなどほとんどありません。むしろそれは、進歩と退行との見分けがつかなくなった、キッチュな世界です。

 ゲーム、現代アニメ、インターネット文化について語る際に、ポストモダンのコードを用いないことはありません。でも、この近代とポスト近代との並立を見失うとすれば、それは、この現実の中の様々な重要な局面をも、また見失うことになるのではないでしょうか。