Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

近未来SF(ジャンル)

 近未来SF映画は、人類の文明にとって重要な事項であるテクノロジーの発達が、人間の意識と生存に対して、どのように関与するかを主要なテーマとしています。いわば、テクノロジーの倫理です。典型的には、ロボットとマッド・サイエンティストの組み合わせによって、暴走したテクノロジーが人を危機に陥れる有様を描きます。

 フリッツ・ラング監督『メトロポリス』のロートヴァングや、ジェームズ・ホエール監督『フランケンシュタイン』のフランケンシュタイン伯爵は、マッド・サイエンティストの嚆矢です。マッド・サイエンティストは、人間ならぬ機械に人間以上の能力を付与しうる技術力においては、造物主に匹敵する高水準の知性を誇りますが、他方、科学技術に対する過信・盲信においては、ほとんど幼児的な退行を示します。

 マッド・サイエンティストのこの両義性はまた、近未来都市が、テクノロジーが爛熟・頽廃して、むしろ古代・中世的な様相を呈した、退行と進化が同義であるような場所であることとも対応します。リドリー・スコット監督『ブレードランナー』の都市は、酸性雨の降りしきるジャンク都市であり、テリー・ギリアム監督『12モンキーズ』に至ると、地表は汚染され尽くして人は地下生活を余儀なくされています。

 マッド・サイエンティストは従って、近未来SFジャンルにおける、一つの典型(ideal Typus)と言えます。もちろん、ロボットそのものも典型であるわけです。ロボット典型のフレームは、アイザック・アシモフの「ロボット工学の3原則」などで提供されました。人間に危害を加えず、命令に服従し、それに反しない限りで自己保存を行う、とするこのロボット・コードに対する違反が、いわば近未来SFジャンルの物語を作るのです。

 ただし、近未来SFというジャンルは、それでもなお、テクノロジーに依拠した何らかの未来像を描くことのできた時代の産物でした。今、私たちは、もはや、20世紀と同じように、近未来を思い描くことはできないように思います。それはもはや、短期的な「ソリューション」であっても、願われた=危惧された未来ではないでしょう。とすれば、近未来SFは、姦通小説と同じように、過去のジャンルになってしまうのでしょうか?