定型(物語5)
イーザーの『行為としての読書』やロトマンの『文学理論と構造主義』など、情報理論を取り入れた読解の方法論では、「テクストと読者とが各々所有する情報のバランス」が問題にされています。
イーザーのレパートリーは、テクスト・読者が所有する情報そのものであり、過去の文芸や同時代の社会から引用された蓄積であり、それら相互の水準の相違が読書行為の契機となります。ロトマンもまた、情報において「テクスト>読者」となる場合、テクストは難解に過ぎ、逆に「テクスト<読者」となる場合、既知の情報しか得られない、ということになると述べています。
定型は、テクストが読者との間の文芸的コンタクト(接触)を確保するための、重要な紐帯となります。すなわち、読者があらかじめ所有する類型のストックに訴えることによって、テクストは自らを受容する回路へと、読者を引き込むことができるのです。
特に、物語の場合には、定型は、この意味では必須とも言えます。『不如帰』とか『愛と死をみつめて』とか『めぞん一刻』とかの物語の枠組みは、他に多くのヴァリエーションが存在する定型です。読者は一定程度に「安心して」物語享受のシートに座り、ゆっくり寛いで個々の物語を堪能することができる、というわけです。
加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』に結実したメロドラマ論は、いわばこの物語の定型論の最終理論とも言えます。つまり、メロドラマでは、「いつか見た物語をもう一度見ることによって存分に泣くこと」が求められるのであり、むしろ定型にぴったり合った物語こそが歓迎される、というわけです。小説・映画・マンガなどを横断して語るこのメロドラマ論は、この分野を考える際に必須の、参照の枠組みを与えてくれます。
もちろん、定型は「型」である限り相対的なものですが、さまざまな定型を便宜的にであれ、押さえておくことは、読解に基盤を与えます。ところで……定型という観点から見た場合、21世紀以降に、新たな物語は現れるのでしょうか? 現在の物語は、そのジャンルに拘わらず、20世紀までの定型の変容とそこからの逸脱に終始しているのではないでしょうか?
イーザーのレパートリーは、テクスト・読者が所有する情報そのものであり、過去の文芸や同時代の社会から引用された蓄積であり、それら相互の水準の相違が読書行為の契機となります。ロトマンもまた、情報において「テクスト>読者」となる場合、テクストは難解に過ぎ、逆に「テクスト<読者」となる場合、既知の情報しか得られない、ということになると述べています。
定型は、テクストが読者との間の文芸的コンタクト(接触)を確保するための、重要な紐帯となります。すなわち、読者があらかじめ所有する類型のストックに訴えることによって、テクストは自らを受容する回路へと、読者を引き込むことができるのです。
特に、物語の場合には、定型は、この意味では必須とも言えます。『不如帰』とか『愛と死をみつめて』とか『めぞん一刻』とかの物語の枠組みは、他に多くのヴァリエーションが存在する定型です。読者は一定程度に「安心して」物語享受のシートに座り、ゆっくり寛いで個々の物語を堪能することができる、というわけです。
加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』に結実したメロドラマ論は、いわばこの物語の定型論の最終理論とも言えます。つまり、メロドラマでは、「いつか見た物語をもう一度見ることによって存分に泣くこと」が求められるのであり、むしろ定型にぴったり合った物語こそが歓迎される、というわけです。小説・映画・マンガなどを横断して語るこのメロドラマ論は、この分野を考える際に必須の、参照の枠組みを与えてくれます。
もちろん、定型は「型」である限り相対的なものですが、さまざまな定型を便宜的にであれ、押さえておくことは、読解に基盤を与えます。ところで……定型という観点から見た場合、21世紀以降に、新たな物語は現れるのでしょうか? 現在の物語は、そのジャンルに拘わらず、20世紀までの定型の変容とそこからの逸脱に終始しているのではないでしょうか?