Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

ドキュメント形式3

 手紙、日記、手記。これらが文芸テクストにおける3大ドキュメント形式です。いずれも、「隠された真実の暴露」という性格において共通しています。もちろん、「真実」は真実というよりは、物語としての魅力に重点をおいて構築されます。多くの場合、退屈な事実よりも、意想外の出来事が語られるわけです。

 手紙は信書開封の禁というほどで、法的また慣習的に他人が読んではならないものとされ、日記もそれに準じます。通常は他人の知ることのできない個人の秘密の暴露こそ、それらが文芸に採用された理由です。手記は、その暴露を筆者が意図的に行うのです。近代小説は、多かれ少なかれ、このようなプライヴァシーの侵犯とスキャンダリズムへの志向を内に秘めています。

 リチャードスンの『クラリッサ』は、良家の娘がレイプされ死ぬ物語を基軸として、それを子女教育のオブラートでくるんだものでした。テリー・イーグルトンの『クラリッサの凌辱』は、この経緯を詳述しています。もちろん、スキャンダリズムは、社会の鏡としての小説の性質とメダルの両面をなします。表面の姿だけでなく、人間の実相に迫るためにこそ、この手法が有効となります。この事情は、これまで多くの近代小説論が、主観・客観の二元論で論じられてきた理由の一つとも考えられます。

 また、額縁小説の項でも述べたように、典型的なドキュメント形式では、原稿が偶然発見された、という体裁を採り、書き手は単にそれを紹介する編集者という立場に立とうとします。篠沢秀夫氏の『文体学原理』ではこれを「発見原稿型額縁小説」と呼んでいます。言うまでもなく、真実らしさを仮構するための設定です。

 しかし、発話は常に、それ自身の陳腐化というリスクを冒しています。どんなに素晴らしい発話であっても、言葉になった瞬間に、相対化され、批評されざるをえません。いわんやドキュメント形式は、小説ジャンルと同義といえるほどに普及しました。今どき、手紙・日記・手記形式で書かれたテクストを、そのまま事実として読む人はいないでしょう。真実らしさの仮構が、むしろ虚構性の徴表として受容され、そこを亀裂部としてメタフィクションの回路へと接続するのは、必然の成り行きです。