Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

書簡体小説

 小説と手紙。人の心を驚かし、人の心を愉しませる、この2大言語形式が結びつくことに、さして疑問の余地はないかも知れません。「世界は小説と手紙(メール)とで出来ている」と極論する哲学者もいるほどです。……もちろんこれは冗談ですけどね。しかし、これはなかなか穿った格言ではないでしょうか?

 西洋近代市民小説の祖とされるリチャードスンの『パミラ』『クラリッサ』以来、18世紀から19世紀までの間に、実に500編とも800編とも言われる数の書簡体小説(epistolary novel)が、西洋文学史を彩ったとされます。書簡体はドキュメント形式の代表であり、ドキュメント形式の法則は、すべて書簡体小説にもあてはまります。その上で、書簡体小説のジャンル的な特徴はいくつも挙げられますが、ここでは2つに集約して説明します。

1)発信者/受信者の前景化
 手紙は通常、誰かが書いて誰かへと送られるものです。この、発信者と受信者とのあり方のパターンが、書簡体小説のヴァリエーションを作ります。「石にひしがれた雑草」は一方的な絶縁状であり、往信だけで復信はありません。これは一種の告白調(ソロ型)です。2人の間の往復書簡体(太宰治「風の便り」など)は、情報の対決・対位法が強調されるデュエット型です。そして、3人以上の手紙が交錯するシンフォニー型としては、ラクロの『危険な関係』などが挙げられます。

2)物質的側面
 これは、単なる言葉と手紙との違いです。手紙は常に、何かに書かれて送られる物質的な形態を持つ、ということです。手紙の物質的側面の強調は、有島武郎の『宣言』には顕著で、主人公とは別の町にいる友人と恋人2人が主人公あてに送ってくる、手紙の筆跡や便箋が次第に似通ってくることが、2人の接近を暗示します。どんな言葉も物質的局面を持つのですが、それが手紙となると、現実に触知可能な物質性を帯びます。書簡体は、言語の虚構性と手紙の現実性とを、繋いだり切り離したりすることによって、様々な表現効果を生むのです。

 この発信・受信の問題と、モノとしての性質は、書簡体小説のジャンル的な法則に大きく響いてきます。