Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

東京は人が多すぎる(『東京物語』2)

 『東京物語』は、パラマウント社の映画で、レオ・マッケリー監督の『明日は来たらず』と関係が深いことが指摘されています。こちらは老夫婦が子どもたちの家で厄介者にされ、見ず知らずの他人に親切にされる話ですが、二つの映画が決定的に異なるのは、一方に「東京」という記号が登場することです。この映画は、尾道の場面に始まり、尾道の場面に終わるのに、『東京物語』なのです。

 『一人息子』という戦前の作品でも、小津は、優秀だからと言われて苦労して東京に出した息子を訪ねた母が、思いもかけぬ息子の有様を見て驚き、さらに上京したことを後悔する息子に対して、これからではないか、と叱るストーリーを作りました。東京に出たからといって成功するわけではないが、東京に出たいという子の願いを拒絶できない、というドラマは、繰り返されてきた世代の確執であり、日本近代の宿命とも言えるものです。

 東京は、国内の外国です。地方の出身者にとって、東京に出ることは未来へ行くことであり、低い段階から高い段階へと進歩(進化)することにほかなりません。進歩を求めるのは、明治維新啓蒙思想以来の近代主義と西欧化の原理に等しく、つまりは、東京は日本的な近代、上京は近代化と等価なわけです。多くの人間が、上京の欲望を免れないとすれば、それは多くの人間が、近代(化)の欲望を免れないからです。

 日本の近代化が、近代世界システムへの参入を意味するとすれば、東京は国内グローバリズムの中心であり、周縁としての地方との間の格差は、構造的に決してなくならないどころか、開く一方であるのは当然のことです。第1次産業生産品を、地方と国外から供給を受け、第3次産業に突出し、高度な社会的・文化的サービスの充実を謳歌する東京と地方との関係は、先進国と途上国との関係とまさしく並行します。

 飲み屋で、周吉たちは、「東京は人が多すぎるんじゃ」と話をします。東京で大きく成功することは並大抵のことではない、という認識です。全体として高級な東京においても、やはり貧富優劣の格差は生じます。(当たり前ですが。)とすれば、東京内部においても、同様の構造は相同的に成立するのです。一握りの一流の人に対して、多数の周縁の人がいて、両者間の三角貿易的収奪交換によって社会経済は成立するわけですから。

 従って、「東京」とは、奴隷制植民地主義の記号です。現代の奴隷を、ワーキングプアなどと呼びます。ただ、東京内部にいる限り、全体の到達度が高いので、それが見えにくいのです。でも多くの場合、自分が作ったわけでもないものを見て、喜んで自慢しているだけです。それに対して、単純に上京によって楽しめなかった周吉夫婦は、そうした皮相で哀れな東京のあり方を、「東京は人が多すぎるんじゃ」という言葉に託して、語ることができたのでしょう。

 「地方」もまた、奴隷制の記号であることに変わりはありません。当然、もっとそうなのです。近代世界システムは、中心と周縁両方の構造によって成立します。「村おこし」「地域おこし」「過疎からの脱出」など、それらが地方の東京化を目指すのならば、そんなことをいくらしても、あっちからこっちへ人とモノが移るだけで、潤う地域があれば、必ず枯れる地域がある、それが資本制です。もし日本全土が東京化したら、国外に広大な地方が必要になるだけです。植民地とか、植民地なき帝国主義とか、グローバリズムとかは、皆、そのことを指しています。

 このような地政学を、あなたも私も、誰も免れてはいません。もちろん、誰にもどうにも容易にはできないのです。できないからと言って指弾することなどできません。私たちは、ダメだダメだとばかり追及する啓蒙家の言に耳を貸すよりも、自分にできることを摂理の中で実践する以外、術がないはずです。『東京物語』の、東京と尾道とを結ぶ鉄道の進行は、そのような私たちの生を暗示するようでもあります。そういえば、鉄道もまた、近代の象徴でした。