Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

自説の主張を中心に(口頭発表の構築2)

 これもまた、論文でもほぼ同じことなのですが、聴衆が「この人、いったい何が言いたいのだろう?」と思うような発表がけっこうあります。しかし、多くの場合それは不勉強とか準備不足ではなく、全く逆に、資料豊富(あるいは資料過多)で、ついでに発表時間も豊富(時間超過)であることも少なくありません。資料は興味深く、聴衆にとっても価値のあるものです。けれども、やはり、発表者が何が言いたいのかは分かりません。

 「策におぼれる」という言葉がありますが、資料操作や先行研究批判におぼれると、分量的には十二分であっても、肝心の主張がなおざりになってしまうのです。そのような発表には、「よく勉強されているようですが、ご発表のテーマについてはあまり明確ではないようですね」というような質問が寄せられてしまいます。それは確かに、貴重な発表の機会に、手の内にある材料を全部出したいと思い、あるいは、他の見解との対立点を明瞭にしたいと考えるのは人情だとも言えますね。

 でも、しょせん、30分の発表や30枚の論文で、資料も批判も主張もぜんぶ出すというのは、かなり大変なことなのです。もちろん、資料紹介や研究批判がメインの発表ならば、自分の主張がなくても構わないのですが、そうでないとしたら、何よりも自説を中心として、それを質量ともに発表の中心に位置づけるように工夫をするべきでしょう。「量」というのは、多くの時間(字数)をそれに割く、ということです。「質」というのは、言葉をよく選び、文章に意を払い、そして、パフォーマンスもよく考えて、ということですね。あえて他の要素を犠牲にしても、これだけは前面に打ち出したいものです。

 特に、他説への批判は、論旨を明快にするのに効果が高い場合もありますし、何よりも、それによってその論の位置づけを論者自身が意識することは大事なことです。しかし、何事も、やり過ぎて本末転倒となるのはいけませんね。私は若い頃、かなり他説批判を意識して論を立てたことがありますが、この頃では、残された時間内にそんなことをするよりは、自分の言いたいことを言う方が得策だろうと思うようになりました。もちろん、だからといって唯我独尊たれ、と言うのではありません。これについては先行研究への対応に関するエントリをごらんください。

 自説の主張を中心に。当たり前すぎて、がっかりしますか? でも、これはほんとうに大切なことなのです。