子を持って知る子の恩、または、達成感について
某年某月某日、某大学(教養教育)での講義中:「文学なんてものは、娯楽ですから、人間の生命にとって必要不可欠なものでは、ありませんね。しかし、必要不可欠でないものこそ、人間の人間たる所以に繋がっていることは間違いがありません。
文学研究も、正しかろうが誤ろうが、人間の生存を左右するほどのことはないのです。生命をあずかる医師とか、巨大なプロジェクトを生み出す建築家とか、そのような職業の達成感に比べれば、片々たる作品についての片々たる論文を一本書いたところで、多少の感慨に過ぎないとも言えます。
しかしね、それでも、達成感は達成感に変わりはありません! 一編の小説、一編の詩について、自分だけにしかできない解釈の論考が書き上がって、それが活字になり、公表された時の気持ちには、他のものには代えられない、うれしさがありますね。」
それからまた、付け加えれば、前にも書いたように、みてきた学生が、素晴らしい研究発表をしてくれた時には、こちらの方まで(いや、こちらの方こそ=本人は、自分が何をしたのか、よく分かっていないことが多いから)、大きな達成感を抱くことになります。
あまり、はしゃがないようにしようとは思うのだけれど、そういう時の晩は、うれしくってよく眠れなくなりますね。もう、これでいつ死んだっていいや、と思うぐらい。……いや、それは、少し大げさか。
(そう、前には、「大学院重点化大学では、もっとだろう」と書いたのですが、今、そのような大学において、やはりそうだと感じるものです。)
そして、かつてお世話になった自分の先生も、自分たちをこのようにみていたのだろうかと、今度はさかのぼって考えてしまうのです。比喩的に言うならば、子を持って知る子の恩、というところでしょうか。
しかし、それにつけてもやはり、この仕事というのは、人と人との間のコミュニケーションということが、対象でもあり、また方法でもあるような、因果なものだと、つくづくと感じるのです。
なお、「子を持って知る子の恩」というのは、もちろん、「子を持って知る親の恩」のもじりですが、有島武郎が好んで使ったフレーズです。子についていう金言としては、太宰治の、「子供より親が大事」と双璧をなす、類のない名句だと、私は考えています。
→「何がおもしろい仕事」
文学研究も、正しかろうが誤ろうが、人間の生存を左右するほどのことはないのです。生命をあずかる医師とか、巨大なプロジェクトを生み出す建築家とか、そのような職業の達成感に比べれば、片々たる作品についての片々たる論文を一本書いたところで、多少の感慨に過ぎないとも言えます。
しかしね、それでも、達成感は達成感に変わりはありません! 一編の小説、一編の詩について、自分だけにしかできない解釈の論考が書き上がって、それが活字になり、公表された時の気持ちには、他のものには代えられない、うれしさがありますね。」
それからまた、付け加えれば、前にも書いたように、みてきた学生が、素晴らしい研究発表をしてくれた時には、こちらの方まで(いや、こちらの方こそ=本人は、自分が何をしたのか、よく分かっていないことが多いから)、大きな達成感を抱くことになります。
あまり、はしゃがないようにしようとは思うのだけれど、そういう時の晩は、うれしくってよく眠れなくなりますね。もう、これでいつ死んだっていいや、と思うぐらい。……いや、それは、少し大げさか。
(そう、前には、「大学院重点化大学では、もっとだろう」と書いたのですが、今、そのような大学において、やはりそうだと感じるものです。)
そして、かつてお世話になった自分の先生も、自分たちをこのようにみていたのだろうかと、今度はさかのぼって考えてしまうのです。比喩的に言うならば、子を持って知る子の恩、というところでしょうか。
しかし、それにつけてもやはり、この仕事というのは、人と人との間のコミュニケーションということが、対象でもあり、また方法でもあるような、因果なものだと、つくづくと感じるのです。
なお、「子を持って知る子の恩」というのは、もちろん、「子を持って知る親の恩」のもじりですが、有島武郎が好んで使ったフレーズです。子についていう金言としては、太宰治の、「子供より親が大事」と双璧をなす、類のない名句だと、私は考えています。
→「何がおもしろい仕事」