Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

2010年度第3回 日本比較文学会北海道支部研究会案内

=一般来聴歓迎 聴講無料=
■日時 2011年3月19日(土) 15:00開会
■会場 北海道大学 W講義棟 W205号室



全体司会 北海道工業大学 梶谷 崇

*14:00 開会の辞
北海道大学 中村三春

○研究発表1 15:10-15:50
表象された「原爆」―映画『二十四時間の情事』と『さらば 夏の光』をめぐって―
北海道大学大学院修士課程 朱依拉

○研究発表2 15:50-16:30
〈同化〉と〈抵抗〉―村山知義「明姫」を中心に―
北海道大学大学院博士課程 韓然善

比較文学比較文化 名著読解講座 第4回 16:30-17:30
鈴木禎宏著『バーナード・リーチの生涯と芸術―「東と西の結婚」のヴィジョン―』
北海道大学大学院修士課程 井上裕子

*17:30 閉会の辞
北海道支部支部長 飛ヶ谷美穂子

(発表要旨は「続きを読む」をクリック)
■ 表象された「原爆」―映画『二十四時間の情事』と『さらば 夏の光』をめぐって―
朱依拉

 2003年の春、吉田喜重監督は15年ぶりに、監督人生最大の課題ともいえる原爆問題を描く新作『鏡の女たち』を発表し、国際的に大きな反響を呼び起こした。周知のように、吉田監督はデビューした当初から原爆問題に関心を抱いていたものの、原爆の表象に関しては常に禁欲的な姿勢を見せ続けている。
ところで、『鏡の女たち』までの監督作品の中では、原爆記憶を持つ主人公が登場した作品は一つだけあった。『さらば 夏の光』はそれだ。だが、長崎原爆で家族を亡くしたヨーロッパ在住の日本人女性と、幻のカテドラルを探しにヨーロッパまでやってきた日本人男性の恋が描かれたこの作品は、フランス人女性と日本人男性が広島で愛し合う名作、アラン・レネ監督の『二十四時間の情事』のストーリーを想起させずにはおかなかった。事実、吉田監督がかつて書いたエッセイやインタビューでの発言からは、彼が『二十四時間の情事』から衝撃を受けつつ、『さらば 夏の光』の中で原爆記憶の表象を試みたことが、容易に読み取れるのだ。
今回の発表は、『二十四時間の情事』と『さらば 夏の光』の作品比較を通して、原爆を表象する際に現れてきた日仏二人の監督の差異を検討することを目的とする。

■〈同化〉と〈抵抗〉――村山知義「明姫」を中心に
韓然善

 村山知義(1901~1977)は、美術、舞踊、演劇など多方面の領域で活動した人物として知られている。従来の村山研究では、戦前の芸術活動に重点が置かれており、戦中戦後の活動についての言及は少ない。この一因には、戦中戦後における植民地朝鮮との関連性、また文学作品に見られる左翼的な要素など、彼の活動が常に同時期の政治的な問題と絡んでいることが挙げられる。
しかし、転向を表明した1933年以降に発表された文学作品群を検討すると、そこには同時代の政治性に寄り添う一方で、そこから抜け出そうとする村山知義の姿が見えてくる。
本発表で取り上げる「明姫」(1946)は、こうした政治的な問題のみに回収されない要素を内包している。終戦直前の植民地朝鮮を背景した本作品は、一見すると日本型オリエンタリズムの傾向が露わにされていると捉えられる。だが、作品における日本人と朝鮮人との関係を検討すると、その傾向とは相容れない要素も見て取れる。つまり、本作品には終戦前後における帝国日本と植民地朝鮮の間に孕まれた、ある種の矛盾が露呈されていると考えられるのである。
本発表では、当時の植民地朝鮮の状況を踏まえながら、とりわけ「明姫」に描かれた朝鮮・朝鮮人像に注目し、文学的側面からみる村山知義の政治的な位置づけを再検討する。

比較文学比較文化 名著読解講座 第4回 

鈴木 禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術―「東と西の結婚」のヴィジョン―』
井上裕子

 本書は日本の白樺派民芸運動に関係の深い英国人陶芸家バーナード・リーチの作家論および作品論の包括的論考である。筆者はリーチ自身が残した「東と西の結婚」という言葉に着目し、その言葉の分析・読解と作品への展開を比較文化論的に論じている。リーチの言う「東」とは自身が陶芸を学んだ日本が窓口となる東アジアであり、「西」とは故郷であり戦後活動の拠点としたイギリスを代表する西ヨーロッパであるが、筆者によれば、リーチはどちらか一方を優位に置かず、生涯複数の文化間で往復運動を続け、それが「結婚」という言葉に表わされる文化と文化の混合に対し「一元化」という積極的な意味を見出すことができるという。それは具体的には、文化の“折衷”というよりは“両義”という意味を持つものであるとし、その実践としての三つの作品(西洋的な作品、東洋的な作品、両義的な作品)に詳細な分析を加えている。実はリーチの作品には日本陶器の影響は見られないという。筆者はだがそこで日本という場所を“子宮”にたとえ、そこに母胎回帰願望の現われとして「結婚」の意義を与えている。さらに、本書において「東と西の結婚」という言葉は、地理的文化的な二元論を解消するとともに、そこにリーチの宗教的実践(バハイ教への改宗)や、純粋美術と応用美術にまたがる陶器という対象と工房経営、制作における「自力」と「他力」など、作家と作品が関わらざるを得ない二元的な要素が統合されていく様子へと投射されている。そこではリーチ自身が使った「東と西の結婚」という言葉の持つ意味が拡張され、多面的な広がりを見せているのである。