Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

第1回 日本モダニズム文化における〈知覚の変容〉研究会案内

■日時 2011年7月23日(土)14時~17時
■会場 北海道大学人文社会科学総合教育研究棟 W409会議室

※参加歓迎

□研究発表

梶井基次郎「器楽的幻覚」論
北海道大学大学院文学研究科   
リサーチ・アシスタント  山田 桃子


□Session The Pure DAZAI 第1回

水中のミュートとブレス―太宰治「秋風記」論―
北海道大学大学院文学研究科   
客員研究員  大國 眞希

太宰・ヴィヨン・神
北海道大学大学院文学研究科   
教授  中村 三春


北海道大学大学院文学研究科RAプロジェクト
「日本モダニズム文化における〈知覚の変容〉の研究」


(発表要旨は「続きを読む」をクリック)
梶井基次郎「器楽的幻覚」論

山田 桃子


 モダン都市の構築が進んだ一九二〇~三〇年代、都市における意識や知覚は、新たな〈現実〉にさらされていたと考えられる。
 梶井基次郎「器楽的幻覚」(「近代風景」一九二八年五月)は、こうした変容の問題を考える際に興味深い一作品だ。本作では、あるフランス人ピアニストの演奏会における〈幻覚〉的な聴取体験が、一種技巧的な修辞とともに、詳細に描写される。
 それが一九二五年秋のアンリ・ジル=マルシェックスの連続演奏会での梶井の実際の聴取体験を踏まえて執筆されていることは、つとに指摘されている。帝国ホテルで行われたこの来日演奏会は、クープランといったバロック音楽作曲家の作品から、同時代のフランス現代音楽まで多彩な作曲家の作品が演奏され、西洋音楽の歴史的変遷を提示した、音楽史に残る出来事であった。梶井もまた友人宛の書簡のなかで、フランス近現代音楽に接し、次第に興奮を覚えていく様子を語っている。そこで語られている「静的な瞑想的な」興奮の経験が、三年後の「器楽的幻覚」のテクスト化と関わっていることはもちろんだが、この演奏会の経験にのみ視野を限定してはならないだろう。実際、一九二七年十一月の書簡でも、浄瑠璃義太夫の会で聴いた、三味線の音色と掛け声によって「器楽的幻想とも云ふべきもの」が起こったと記されている。
 本作を知覚の変容という問題系から取り上げるには、日本におけるフランス近現代音楽受容という要素のみならず、ラジオ放送の開始やレコードの普及といった音(楽)環境における変化、さらに映画や、新たな交通網などを介した都市経験の変化を視野に入れなくてはならない。また、そもそもそのような都市の刺激や情報の流通と接続していく自己の身体や意識を見出す視線自体を問題化する必要がある。
 演奏者の指の動きと鳴り響く音楽との乖離の感覚、「遊離して動いてゐ」く意識、そして没入の感覚(「なんといふ不思議だらうこの石化は?」〔下線論者〕)を、本作の「私」は自己観察によって記述する。二〇年代後半における、「私」の身体へのこうした〈自問〉は、社会、芸術、制度、技術などの多様な領域とどのように関係しているのか。考察を試みたい。


水中のミュートとブレス
大國 眞希

 「秋風記」は、第四創作集『愛と美について』(竹林書房、昭15・5)に書き下ろしの小説として収められた短編である。昭和十四年の前年、前々年は、<沈黙の時期>と呼ばれるほど、発表された作品は少ない。「二十世紀旗手」「燈籠」「満願」「姥捨」がそれに当たる。この二年をピリオドとして挟み、迎えた昭和十四年には、次々と作品が発表されていく。そして、質量共に充実した、いわゆる<中期>の作品群へと接続する。そこでは、<前期>に見られる、自己言及の苦しみを表現したかのような、バラバラに刻まれては再構成され、「ヒステリック」な音色を響かせる「コード」は鳴りを潜める。
 既に論じたように(大國眞希『虹と水平線』おうふう、平21・12)、「満願」では「めくら草紙」や「道化の華」と比較したとき、水の流れとそこから浮かびあがる白光において、空しさから生命の躍動への反転が起こっている。それは「満願」の結末で、「私」に「美しい」と現在形をもって(時が経つほどに強く)実感されている、白いパラソルの輝きによって示されている。
 このことを頭の片隅に置きながら、昭和十二年に執筆され、掲載予定であった「サタンの愛」を改作して発表された「秋風記」を考えてみたい。「秋風記」でもまた、虚構・現実、生・死の問題が、自意識や自己言及と共に、展開される。しかし、「道化の華」(昭10)や「断崖の錯覚」(昭9)とは全く別の様相が見られる。
中期作品群の胎生学として、今回は、中期作品と称するには血肉は未発達ながら、「秋風記」の骨格、内部構造がどのような中期作品群を形成していく可能性を備えているかを、作品分析を通じて明らかにしたい。そして、ルドンの黒のように塗り込まれた自己言及の果てに開いた闇から、テクストにおいて、その先を照らす光を、そして声を取り戻し得たのかを考える一助となることを目指す。


太宰・ヴィヨン・神
中村 三春

 太宰治ヴィヨンの妻」(『展望』昭22・3)は、ポライトネス(礼儀正しさ)を特徴とする敬体の女装文体で語られる。また、冒頭の「その夜」から始まり、翌日、「十日、二十日とお店にかよつてゐるうちに」、「お正月の末」の「その夜」、「その翌る日」の午前、と時間進行を追う自分の物語叙述の中に、椿屋の主人の話や自分と大谷との馴れ初めから現在までの生活の経緯の回顧などを織り交ぜ、全体としては緊密な、一種の因果性を付与された回想手記として構成されている。
 ではこの妻は、誰に対して、何のために、自らの回想告白手記を語っているのか。そしてまた、そのような語り論的な装置の機能を、どこまで確定することができるのだろうか。
 これらのメカニズムを分析して、この小説の小説としての根元的な構造に立ち返ることにより、本発表では、語り手を超えるメタプロットによる他者の問題への言及(田中実「《他者》という〈神〉」)や、戦後における「妻」というシステム的な制度の相対化(榊原理智「太宰治ヴィヨンの妻』試論―『妻』をめぐる言説―」)など、従来行われてきた論究を検証し、新たな展望を提起することを目指したい。
 特に、「斜陽」(『新潮』昭22・7-10)、「おさん」(『改造』昭22・10)と併せた一種の連作関係において既に論じた(中村三春「太宰治の異性装文体―『おさん』のために―」)表象におけるデカダンスパラドックスを、題名と作中に現れるフランソワ・ヴィヨンや、核心部分で話題とされる「神」との関わりにおいて、再び問題化することを試みたい。