Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

専修大学村上春樹研究会 第2回研究発表会のご案内

1Q84』再読(2012年4月21日更新)
■日時 2012年4月28日(土)14時00分~17時30分
■会場 専修大学サテライトキャンパス スタジオB
(小田急線向ヶ丘遊園駅北口下車。新宿より急行で約20分)

※来聴歓迎・聴講無料・申込不要
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→要旨ダウンロード(New!

□研究発表

村上春樹1Q84』の〈母〉たち
平野葵(北海道大学大学院博士後期課程)

村上作品におけるコミュニティー
松枝誠(帝塚山学院高等学校)

反転する『1Q84』ーはじまりとしての〈声〉
佐々木亜紀子(愛知淑徳大学ほか)

□コメンテーター
堀口真利子(名古屋大学大学院博士後期課程)
中村三春(北海道大学大学院教授)
米村みゆき(専修大学准教授)


(発表要旨は「続きを読む」をクリック)
【発表要旨】

村上春樹1Q84』の〈母〉たち
平野 葵

 村上春樹1Q84』を、〈母〉という視点から読み解く。
 村上作品における〈母〉は、これまであまり論じられてこなかったテーマである。しかしこの『1Q84』には数多くの〈母〉が登場し、作品の根底と深く結びついている。そこでは、先行する『海辺のカフカ』において展開された、父と息子、そして母と息子の物語が反復されつつも、視点人物が母親になること、すなわち〈母〉の生成という、〈母〉自身の物語もまた同時に展開されている。また、青豆の他にも、母性を欠落させた〈母〉であるふかえりや、暴走する母性に引きずられた〈母〉である老婦人、あるいは消失する他の母親たちなど、存在あるいは不在という形で、様々な〈母〉が描かれている。
 本発表ではこれらの〈母〉たちに着目し、父・夫・娘といった要素と絡めて分析することで、強大な物語としての「〈母〉の物語」という作品の構造を明らかにし、『1Q84』の位置づけと評価を試みる。

村上作品におけるコミュニィ 
松枝 誠 

 村上春樹1Q84』には様々な共同体が描かれている。完全な共同生活を送る「タカシマ塾」から分派し農業コミューンから宗教団体へと転換した「さきがけ」、青豆がかつて所属していた「証人会」。また、柳屋敷の老婦人が管理するセーフハウス、あるいは劇中劇である「猫の町」まで、多様な規模の共同体が存在する。そして、これらの共同体に共通するのは、それらがそれぞれの登場人物をとりまく現状の生活を批判するために創設され、また存在するものであるといえる点であろう。
 過去の村上作品を眺めても、『羊をめぐる冒険』から『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』、『ダンスダンスダンス』、『海辺のカフカ』といった作品でもこうした共同体の存在を指摘することができる。
本発表では過去の村上作品で描かれる共同体を検討しながら、『1Q84』で描かれる共同体を比較し再検討したい。

反転する『1Q84』 ―始まりとしての声―
佐々木亜紀

 『空気さなぎ』はふかえりの声から始まった。その声をアザミが「タイプ」し、天吾が書き換えて小説『空気さなぎ』としたのだ。そしてそれは文芸誌の新人賞に選ばれて、ベストセラーになる。つまり「空気さなぎ」という女の声が、男の言語システムに整合せられて小説『空気さなぎ』として流通したのである。だが、〈知〉の書きことばによって構築されるはずの小説が、「読(ディ)字(スレ)障害(クシア)」のふかえりを作者にしているという背反をどう考えればよいのだろうか。
 このような展開は宗教の流布に酷似している。たとえば大本教の開祖出口ナオは文盲だったという。そのナオの神がかりした声がお筆先となり、その稚拙な文字の連なりは、出口王仁三郎によって整えられ、宗教というシステムにのせて広められた。
 宗教の教義が世界を解釈し直すように、『空気さなぎ』は世界を反転させ、二つの月が浮かぶLunaticな世界を繰広げる。愛と憎、偽りと本物、犯罪者と被害者、そして読者と作中人物。それらは反転しシンクロする。「エッソの虎」が反転していたように。
 文学の祖がオーラルな神話であったのと同じく、『1Q84』は声に始まる物語である。