Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

第3回《Session The Pure Dazai》開催のご案内

■日時 2013年11月30日(土)13時~17時30分
■会場 北海道大学人文社会科学総合教育研究棟 W409会議室

(クラーク像からメインストリートを北へ200m右側の灰色の建物)
※一般来聴歓迎

Session The Pure DAZAI 第3回
司会・北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程
山路 敦史・平野  葵

□特集 DAZAI Osamu 1940

「古典風」のアヴァンギャルド性―旧稿「貴族風」を補助線として―
北海道大学大学院博士後期課程
唐   雪


太宰治「女の決闘」論―「女の決闘」の反権威性―
國學院大學文学部非常勤講師
吉岡 真緒


〈鳥の声〉と銀貨
福岡女学院大学教授
大國 眞希


『新ハムレット』の「愛は言葉だ」―パラドクシカル・デカダンス2―
北海道大学大学院教授
中村 三春


(発表要旨は「続きを読む」をクリック) 【発表要旨】

「古典風」のアヴァンギャルド性―旧稿「貴族風」を補助線として―
唐   雪
「古典風」は昭和十五年六月の『知性』に掲載された、旧稿の題を「貴族風」とする作品である。エピグラフ、書簡、作中作、引用といった太宰がもっとも得意とする技法が用いられている。「葉」を始めとする、いわゆる断片集積形式を取っているように見えながらも、必ずしもそれだけではない、非常に異質なテクストと思われる。初期から中期への過度期にまたがるこのテクストは『晩年』に収められている作品に比肩するほどの高い前衛性があるにもかかわらず、それについての先行研究は少ない。とりわけ、作中に見られる「水仙」「十字架」などの象徴性が看過されてきた。また、物語の結末の意味をめぐっては様々な説がある。それらを解明するための手がかりとして、昭和十二年の十月に執筆された「貴族風」を視野に入れる。その上で改めて作品の内容を分析し、「古典風」の構造上の特徴を明らかにしたい。

太宰治「女の決闘」論―「女の決闘」の反権威性―
吉岡 真緒
 すでに指摘されているように、太宰治「女の決闘」(「月刊文章」昭15・1~6)テクストは、メタ・フィクションにしてメタ・パロディ、メタ・テクストである。引用の集積というテクストのテクスト性を暴露するメタ・テクスト、メタ・パロディは、「原作/パロディ」という区分自体を攪乱し、パロディを「創作の本道」(「清貧譚」)としない価値観にゆさぶりをかける、反権威性を有した形式と言えよう。
 本発表では、このような性質を有する形式によって決定せられる内容について、複雑な物語構造を整理したうえで検討していく。具体的には、ヘルベルト・オイレンベルグ作、森鴎外訳「女の決闘」が三つの水準によって配置される物語構造を明らかにしたうえで、これまで「芸術性の死」と捉えられることの多かった、物語末尾における芸術家の通俗作家化について再検討したい。

〈鳥の声〉と銀貨
大國 眞希
 太宰文学において鳥の声は重要な動機(モチーフ)として登場する。「駈込み訴へ」は、キリスト教世界に見えるイエスを引き渡したユダの物語を素材として、ユダが「旦那さま」に訴える一人称語りによって展開される作品だ。結末近く、ユダがイエスの居場所を告げた直後に、「ああ、小鳥が啼いて、うるさい」と突然、鳥の声が作品の中に出現する。その姿は見えない。この声の意味については先行研究においてもややストカスティックに論じられている。「美しいひと」に別れを告げ、その折に聴こえてくるという形式に注目すれば(鳥でない)「きりぎりす」が想起されよう。「きりぎりす」では、醜い姿をもつこおろぎが美しく震えるきりぎりすへと、「美しいひと」の描いた画の色彩と共振し、「私」の背骨で鳴く。キリスト教世界で鳴く鳥と言えば鶏が有名だ。それはペテロの〈裏切り〉と関連する。ペテロはイエスとの関連を否定しながら、しかし鶏の声は夜の闇を引き裂く。この〈裏切り〉は重奏化され、「二十世紀旗手」にも見られた。「駈込み訴へ」の夜鳥の声は作品内でどのように響くのか/響かないのか。ますは、「駈込み訴へ」を読んでみたい。

『新ハムレット』の「愛は言葉だ」―パラドクシカル・デカダンス2―
中村 三春
 ハムレットの科白に「愛は言葉だ」とある。すぐれた「新ハムレット」論の中で渥美孝子は、「愛への欲望が言葉への欲望と同義であるということは、言葉が愛と同質の働きを持つと考えていることをも示している。それは自己をこえて他者への働きかけを行ない、他者との間に相互主観的な世界を獲得しようとする試みなのである」と述べている(『東北学院大学論集』102、1992.9)。かつて発表者は同じフレーズのある「創生記」に触れて、これは「有島武郎段階」の「人間主義的な読み方」ではないかと批評したことがある(『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、2006.2、翰林書房、p.310)。それでは「創生記」から「新ハムレット」へ、さらには戦後の作品群に向かって、太宰的テクストの言説は変異したのか持続したのか。またそれは、いわゆる〈中期〉という評価区分を認めるか否かにも関わるだろう。テクスト内・テクスト外との交錯において、情報を散乱させるパラドックス的なテクストとして『新ハムレット』(文藝春秋、昭16・7)を再読し、拙著において「別稿を期す」としていた空白を埋めてみたい。